2013年12月13日金曜日

胸に迫る「瞬間の幾何学」(1211asahi)

ジョセフ・クーデルカ展

 近代の芸術表現は、卓越した才能が切り開いてきたと言ってよい。写真なら例えば、美しい構図を見いだす才能や、ある瞬間を締らえる才能といったものがあるだろう。
 旧チェコスロバキア出身の写真家ジョセフ・クーデルカ(75)の回顧展も、才能のすごみを確認させるものだ。1968年のワルシャワ条約機構軍によるプラハ侵攻を撮った作品群が一昨年に垂居で紹介されたが、なぜあの奇跡のような写真が撮れたかについても考えさせられる。
 58~飢年の初期作からして舌を巻く。ある現実にレンズを向けているだけで、モダニズムの美意識に貫かれたスタイリッシユな画面が登場しているのだ。
 例えば、オフィスらしき光景の「『初期作品』から チェコスロバキア、プラハ」(飢年)=写真上。ガラス窓が描き出す格子を背景に、瓶に差された鉛筆と、机に突いた人物の脱が平行になった瞬間をとらえる。左隅で滞らぐ人影も心憎い。写真家は、冒頭に挙げた「構図」と「瞬間」という両立の難しそうな二つの才能を併せ持つ。いわば、瞬間の幾何学への才能。
 写真は通常、「いつ何を撮ったのか」といった記録性を意識しがちだが、この写真家の画面はあまりに純度が高くそれらを忘れさせる。劇場を撮った連作なら、芝居の中身よりも人間開係の本質が浮上する。ロマ族の連作でも、民族固有の問題より、人間とは、生きるとは、といった普遍性に意識が及ぶ。
 プラハ侵攻の作品が目に突き刺さってくるのも、旗を掲げ、戦車を取り込む人々に、瞬間の幾何学が働いているから心遣いない。70年に英国に亡命したクーデルカは、自身と重ねるように流浪者をテーマにした連作を手がけている。「『エグザイルズ』から アイルランド クロー・パトリック巡礼」 (72年)=同下=といった一枚でも、人物と杖の織りなす幾何学を瞬間的にとらえつつ、それぞれの人物の内面すら漂わせている。
 86年以降は、廃虚などの風景を極端に横長のパノラマカメラで撮り続けているが、これもまた構図への意志のゆえだろう。
 胸に迫る「瞬間の幾何学」に貫かれた作品群を見終えた後、2年前の東京で聞いたクーデルカの言葉を思い出していた。「見極める目を持った写真家なら、どんな場所でも美は見いだせる」  (編集委員・大西若人)
 来年l13日まで、東京国立近代美術館。12月16、24、28日~ll日、6日休館。

名画を内から読み換える(1204asahi)

森村泰昌展「ベラスケス頌」「レンブラントの部屋、再び」

 絵画の登場人物になりきった写真作品で知られる森村泰昌(62)が、名画をいわば内側から読み換える独白のアプローチをさらに深化させている。
           
 新作「ベラスケス頌侍女たちは夜に甦る」の対象は、スペインの宮廷画家ベラスケスの代表作「ラス・メニーナス」。幼い王女を中心にした侍女や小人の群像と絵筆を手にしたベラスケス自身を措く。画面の事前にいると想定される国王夫妻が背景の鏡に映り込むなど、絵画空間の複雑な構成を巡り、様々な読み解きがなされてきた。その名画の世界を、森村が登場人物に扮した大型写真8点による「一人芝居」として展開している。
 舞台はマドリードのプラド美術館。「ラス・メニーナス」がある展示室に森村がたたずむ=写真上。場面が変わると、ベラスケスが絵画から抜け出して展示室に立つ。やがて王女らが展示室に現れる=同中=など、登場人物が絵画の内と外を往還するうちに、「ラス・メニーナス」は森村が全登場人物に扮装した異貌の絵画へと転じていく。
 鑑賞者は各場面の差異を確かめながら会場を巡るうちに、絵画の内外からの視線が交錯するという、原画の謎めいた構造を身体的に経験する。知的な構想を榔敵な写真で具現した作品は、上質なエンターテインメントとしても楽しめるだろう。
 別の会場で、1994年の個展をほぼそのまま再現した「レンブラントの部屋、再び」が開
催中。こちらの作品では、オランダの巨匠レユプラントの自画像に森村が扮している=同下。
 レンブラントは生渾にわたって約60点の自画像を措いたという。森村は、若き日から画家として成功した壮年期、借金と破産に苦しむ後半生へと「画家の一生」を追う。新作が絵画空間の謎に挑んだとすれば、こちらはレンブラントに重ねて「私」という謎に迫っている。
 80年代半ば、ゴッホの自画像から始まった森村の「名画シリーズ」は、すでに四半世紀を超す歴史を刻んでいる。今回の2展は、その表現の深化と達成を改めて認識する機会となっている。     (西岡一正)
▽「ベラスケス」は25日まで、東京・銀座の資生堂ギャラリー。曜休館。「レンブラント」は23日まで、垂屏・北品川の原美術館。最終日を除く月曜休館。

星蝕の夜















美術学科主任建石修志が参加している展覧会のお知らせ

12/12~29
大阪 書肆アラビク
北見隆・山本じん・建石修志 会が、オブジェ30点程の展示


BOX OPERA fig=植物學

美術学科主任建石修志が加わっている展覧会

私の劇場2013

美術学科主任建石修志の参加している展覧会のお知らせ。

2013年10月31日木曜日

少年とウサギ展

美術学科主任建石修志も4点を出品しています。



2013111日[金]~2013122日[月]
月~金/13:0020:00 土日祝/12:0019:00
入場料:500
展覧会 会場:parabolica-bis[パラボリカ・ビス]
東京都台東区柳橋2-18-11 ■TEL: 03-5835-1180 map

再び、幻想の季節へ。夜想の密かな願いを「少年とウサギ」というテーマに託し、この六年の夜想とパラボリカ・ビスを支えてくれた作家たちに作品をお願いした。
この展覧会から、夜想とパラボリカ・ビスは、一歩を踏み出す。作家たちのイマジネーションに助けられて、展覧会から新たな息吹が始まる、そんなことがあっても良いのではないかと思う。二〇一〇年代以降の幻想は、古典的な幻想の良さをルネッサンスしながら、新しい源泉から生まれる目を見張るものになって欲しい。いや、この一歩を期にゆっくりと進んでいきたい。(今野裕一)

2013111日[金]~20131125日[月]
[第一会場]mattina/コーディネイト:今野裕一
建石修志/七戸 優/鳩山郁子/妖/横田沙夜/中川ユウヰチ/オカムラノリコ/中川多理/LIEN/三上鳩広
2013118日[金]~2013122日[月]
[第二会場]nacht/コーディネイト:篠塚伊周
土谷寛枇/神宮字光/中川多理/槙宮サイ/ヒラノネム/吉田美和子
20131115日[金]~2013122日[月]
[第三会場]Quartier blanc/コーディネイト:北見和義
PAPANDA's Collection


★[第一会場]mattinaに、三上鳩広さんの参加が決定いたしました!

貨幣に宿る夢と絶望

平野正樹写真展

アベノミクスの喧噪の陰で、国債暴落による財政破綻のリスクが懸念されているという。世界の歴史には、財政破綻がハイパーインフレーションを招き、預金や資産が失われた事例があまたある。その衝撃を映像化した写真家・平野正樹の「MOney」シリーズが、埼玉県東松山市の「原爆の図丸木美術館」で展示されている。
 平野が注目したのは、大日本帝国の崩壊によって紙くずと化した紙幣や債券の類い。
実物の表裏両面をスキャナーで読み取り、大型プリントで細部まで克明に見せる。「戦
時貯蓄債券」や「徴兵保険証書」が戦時下の内地の状況をうかがわせる一方で、「満州
中央銀行券」やマレー半島で日本軍が発行した「百ドル札」は、アジアに版図を広げ
た日本近代史を思いがけない形で想起させる。国家が瓦解すれば、紙幣は価
値を失う。自明の理だが、おばろげな背景に浮かぷ紙幣の鮮明な像には「紙くず」にと
どまらない生々しさがある。例えば、ぽろぽろの「朝鮮銀行券」には日本統治下の庶民
の夢と欲望、憤怒と絶望が染み込んでいるかのよう。貨幣と私たちとの名状しがたい関
係がそこに潜む。
 平野の個展「Afterthe FaCt」 (119日まで)に出品。同展には他に、サラエボ内戦後に残った弾痕を抽象画のようにとらえた「HOleS」、東ティモールで焼き払われた民家の窓をモチーフとした「Windows」など、現代史の痕跡を追ったシリーズも含まれる。     (西岡一正)

2013年10月24日木曜日

分析すり抜ける無限の謎(1023asahi)

横尾忠則の「昭和NIPPON」

物事を整理・分類し、独創性を重んじること。あるいは技術を磨き、前進、進歩してゆくこと。画家・横尾忠則(77)の表現は、こうした近代の価値に何かにつけて反し、あるいはそこから逸脱してゆく。青森県立美術館での大規模個展は、そうした思いを強く抱かせる。
 まず、展示構成。様式やモチーフではなく、戦後日本の精神史を手がかりに、「日本資本主義」 「忘れえぬ英雄」といった章ごとに、絵画やポスター、雑誌の原画などが時代を超えて集められている。昭和史、特にその大衆的、土着的な側面に、強い色彩と奔放な筆の絵画などを通し、一人で呼応できる驚き。同時に、こうした筆立てが次々に無効化される快感を味わう。例えば、「陰惨醜悪怪奇」なる章の絵画「地球の果てまでつれてって」 (1994年)=写真上。洞窟内の泉のような場所でエロチックな光景が展開される。見てはいけないものをのぞき込むような少年たち。そして奥には赤いキノコ雲。これらは
他の作品でも繰り返し登場するし、この一枚も、「泉」の章でも「幼年時代」の章でもおかしくない。分野分析してもスルリと逃げてゆき、謎めいた魅力を残す。副題にある「反復・連鎖・転移」のゆえだろう。
 近代の表現といえるグラフィックデザインからスタートしながら、81年に画家宣言した横尾の表現を美術史に位置づけたくもなるが、模写や引用の多用ならポップアートだし、大きな筆遣いと鮮やかな色彩はニューペインティングや表現主義に通じている。いや、夢と現実、生と.死が混交する以上、超現実主義や象徴主義あたりか。でもそのどれでもなく、また反復、転移してゆく。毎年のように各地で横尾展が成立しうるのは、解釈も無限に転移するからだろう。
 そして、建築家の青木浮が縄文遺跡の発据現場に着想を得た建築空間。展示室が洞窟のように連なり、塵や床が土でできている部分もあり、作品の土着的な魅力を引き出す=同下。見終わると、また振り出しに誘導するのも心憎い反復性だ。
 ここにあるのは、土俗的な前近代なのか、大衆的な脱近代なのか、情念の一人ポストモダンなのか。常識はずれの規格と無限の謎を秘めた世界は、頭をクラクラさせながら堪能するほかない。 (編集委員・大西若人)
 ▽11月4日まで、青森市安田の青森県立美術館。図録は赤々舎から刊行予定。

熱量の高さを継ぐ(1023asahi)

東谷隆司さん追悼展

 韓国・釜山ビエンナーレ2010の芸術監督な領潜盈t昨年10月に44歳で急逝した東谷隆司さんを追悼する企画展「未来の体温 after AZUMAYA」が、東京・・白金の二つの画廊で開かれている。
 親交のあった美術評論家の植木野衣さんが企画を担当。題名は、東谷さんが世田谷美術館学芸員として企画した「時代の体温」展(1999年)と、独立後に手がけた「GUNDAM 来たるべき未来のために」展(2005年)にちなむ。いずれも現代美術から音楽、アニメ、漫画など同時代の表現を横断する展示だった。
 「作家でもあった東谷さんはキュレーター(展覧会企画者)としても主観を打ち出し、『熱量』の高い展示を実現させた。その意思を受け継ぎ、原発事故後の状況を踏まえて、
いま見るに値すると考える作家を選んだ」と梶木さんは話す。
 出展は、原発監視カメラを指さし続ける作業員の映像で話題を呼んだ竹内公太ら4人。自らが歌手マドンナの胎内に宿り、再び誕生するという、東谷さんの東京芸術大卒業制作
なども展示している。11月2日まで、白金アートコンプレックス(港区白金3の1の15)内
の「アラタニウラノ」と「山本現代」。日・月曜休廊。

多くのねじれと謎(1016asahi)


「アンリ・ルソーから始まる素朴派とアウトサイダーズの世界」
 きちんとした美術館に作品が収まり、展示されること。美術を志す者の多くが願うことだろう。この展覧会に作品が並ぷ人のほとんどはしかし、そんなことは考えずに措き、作り続けてきたといえる。1986年開館の東京・世田谷美術館が集めてきた、素朴派やアウトサイダーアートと呼ばれる作家たちだ。
 専門教育を受けないまま、あるいは心の病を抱えて創作する人々たちの作品は、今や様々な展覧会が開かれ、今年のベネチア・ビエンナーレでも中核を占めていた。今展は、収集の起点でもあるアンリ・ルソー(1844~1910)の4点で始まる。パリの税関に働めつつ、描き始めたのは40歳ごろ。平板で簡潔な、でも温かみのある、なるほど素朴な表現を見せる。
 しかし本人はプロとして評価を得ることを望んでいて、ピカソらも高く評価したという。そんなこともあって、展示でも他の作家と隔てた扱いをしている。このねじれが、まず興味深い。いや、この展覧会には、多くのねじれ、謎が潜んでいる。
 風景や花、人物を、見たままに素朴に、あるいは異様に細かく、あるいはデフォルメして描いた作品群の多くには、確かに素人っばさが残る。でも、同じょうな絵を元気鬼子供が学校で描いたとしても、美術館に収まる可能性は低いだろう。見いだす人、時の機運、さまざまな偶然が重なったに違いない。一方で、美術史に位置づけたい表現もある。現クロアチアで郵便配達をしていたイヴァン・ラッコヴィッチが描いたガラス絵の「散在する村落」 (83年)=写真上=は、超現実的で雄大な構図と小さく措かれた楽しげなブリューゲル風の人々の対比が、大きな魅力となっている。
 心の葛藤と闘ってきた草間蒲生の作品もあるが、今や現代美術の代表的存在であり、もうアウトサイダーとは呼ばれないだろう。だからアウトサイダーアートなどの枠組みは、作品評価に先入観を与えるともいえる。
 でも、カメラ店を営みながらシベリア抑留休験を措いた久永強=同下は「生け軋廃山 (93年)=らの、名声や評価のためというよりも、やむにやまれぬ思いで措いた作品には固有の強さがある。こうした枠組みが、表現の原点に摸する機会を与えてくれていることば、間違いない。  (編集委員・大西若人)

はかなさと大胆さと(1009asahi)

日産アートアワード8人の競演

 次代を担う表現者を対象とした「日産アートアワード2013」の最終候補者8人による現
代美術展が11月4日まで、横浜市中区海岸通の「BankART Stud・10 NYK」で
開かれている。
 グランプリ(賞金500万円)を受けた宮永愛子(1974年生まれ)は、港の見える窓際に、ナフタリンや樹脂で作ったスーツケースをいくつも並べた。港町・横浜に想を得た表現
で、ナフタリンは持とともに消える存在でもある。
 審査委員長の南催史生・森美術館長は「場所の特性を生かした上に、すべてのものは永遠ではないという価値観が伝わる」と評価。賞を創設したカルロス・ゴーン社長も「革新的で創造性豊か」と感想を述べた。
 宮永と最高賞を競った西野達(60年生まれ)は、審査員特別賞に。近代化の先進地・横浜にちなみ、展示室に公衆トイレと上下水道のシステムを持ち込む大胆な表現を見せている。
 映像作品も多く、安部典子(67年生まれ)は、中央がくぼんだ多層的なスクリーンに波の画像を投影し詩的な表現に。小泉明郎(76年生まれ)は、戦時中に特攻隊員の恋人と死別した女性に思い出を聞き、さらに亡き恋人と対話をさせる。演出通りにならないところに、′歴史の受容の難しさ、個別性が浮上す
る。
 ほかに、増山裕之、篠田太郎、鈴木ヒラク、渡辺英司が出品している。

2013年10月16日水曜日

はじめての寺山修司(1014asahi)

詩美と化す本物以上のニセモノ
「私の墓は、私のことばであれば、充分」。
そう書き遺し、寺山修司がこの世を去って30年。だが、その墓は今もつぶやき、時に怪し
く光るという。魔術か、幻影か。
● 「職業は寺山修司」と 自ら語るように、その活動は四方八方に及び、厚底サンダルの足跡をたどると、中世の錬金術師が描く宇宙の見取り図のようなものができた。
 これでも全部ではない。1973年には、荒木経惟に弟子入りん、本格的に写真を撮り始めた。「眞を寫す」のではなく「贋を作る」ため、「起こらなかった事も歴史の内である」という持論の証拠物件とするために。
 本業であることばの世界でも、本物以上のまがい物づくりに精を出した。すてきな虚構で、現実をおびやかすのが好きだった。
 ラジオドラマ「大人狩り」は「不道徳」となじられ、エッセーでは家出や母捨てを勧めてひんしゅくを買い、包帯男が一般家庭を訪れる市街劇「ノック」は、110番通報される騒ぎとなった。
 後に失恋自殺する歌人・岸上大作に、寺山は言い放っている。
「煽動でない詩など存在するものだろうか」
● 「贋物」作りに精魂を込めた寺山を険しい目で見る人もいる。そもそも54年、18歳の若さで世に出るきっかけとなった「短歌研究」新人賞の時から「模倣小僧」と、そしる
声はあった。自身の俳句を短歌に詠み直し、中村草田男や西東三鬼の旬を参照し、作り替えていたからだ。「引用」の多さ、自伝の欺きは、今や研究者の常識だ。
 明治大学准教授の久松健一によると、短歌の代表作は田中冬二の詩の2行が「下敷き」だという。

一本のマッチを擦れば海峡は目睫の間に迫る
また、富澤赤黄男の次の2句に原型を求める人もいる。
一本のマッチをすれば湖は霧めつむれば祖国は蒼き海の上
寺山は、良くなるんだからいいじゃないか、と悪びれず詠んだ。
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
● 寺山が「引用」すると、なぜか叙情性と愛唱性が高まった。
 「寺山さんの中には、終生、叙情の芯のようなものがあった」と『寺山修司著作集』の監修も務めた劇作家の白石征(73)はいう。
 父は戦病死、母は寺山が13歳の時九州へ。青森市で映画館を経営する母の叔父夫婦に育てられた。映画や大衆演劇に囲まれた毎日。空想は鍛えられ少年の寂しさを埋めてくれる詩美と化した。練り上げられた詩美は新たな幻想を吐き出し、後の劇的世界、過剰と欠落
のエロスの楽園や、死と再生の地獄巡りにつながっていく。
 「昭和十年十二月十日に/ぼくは不完全な死体として生まれ」で始まる最晩年の詩「懐かしのわが家」は、こう結ばれている。
子供の頃、ぽくは
汽車の口実似が上手かった.
ぽくは

世界の涯てが
自分自身の夢のなかにしかないことを
知っていたのだ

     (編集委員・鈴木繁)

柔らかな気配秘めた意志(102asahi)

曽谷朝絵展「宙色」

 新しいメディアが登場するたびに、表現を巡る情報や評価は速く、かつ大量になってゆく。しかし作り手が、それに振り回され過ぎては表現を深めることができないだろう。その点、曽谷朝絵(1974年生まれ)の初期から最新作までを集めた個展を見ると、意志の強い一貫性を確認することができる。
 曽谷は東京藝術大の大学院時代からVOCA賞などを受賞。出世作は、木漏れ日の中を思わせるバスタブを措いた具象絵画のシリーズで、描写を省略することで、柔らかな光と浮遊感に満ちた気配を描き出した。
 その後はさらに要素を整理し水紋の重なりと輝きだけを抽出したような連作を手がけたり=写真上は「Circles」 (2007年、西村画廊蔵)、ガラスの水滴が映す色と光に着目したり。抽象の度が増していったが、やはり具象の描き手というイメージは横いていた。
 それが10年ごろから、がらりと違う表現を、絵画と並行して手がけるようになる。しぶきが飛び散ったような形にサイケな強い色彩を与え、重ね、それで展示室の床も塵も撃つ空間的な表現を始めたのだ。曽谷の絵画に親しんできた人の中には、作者はどこにいくのか、と戸惑った人もいたに違いない。
 それでも曽谷は変化を止めない。もっと淡くかつメタリックな色彩を与え、鑑賞者をどこか夢心地な光で包んでみせた。今回も、こうした空間的な展示の、より新しく、キュートなバージョンが2室を占めている。
 そして最新作は、高さ11Mの展示室の壁にも天井にも投影される初の動画作品「宙」だ。数々の光の球形や樹木、あるいは花を思わせる形が重なって現れうごめき、季節の移り変わりのように色も変えてゆく=同下。
 いわば回り灯籠の中にいる感覚で陶然と見上げていると、作者の脳内にいるような、あるいは命の営みそのものに包まれているような気分になる。映像を、中空の鏡面仕上げの球体に三方から投じて反射させるシステムの完成度も高い。
 あのダイナミックな作風の転換は、色と光と空間の方程式を一つずつ解いていたのではないか。だから、この映像表現に至ったに違いない、と思わせる。
 強い意志から生まれた光と色の空間を、身をもって体験できる。  (編集委員・大西若人)
 ▽27日まで。水戸市五軒町の水戸芸術館。7、15、21日休館。図録は青幻舎から刊行予定。

ウイルスは「生物」か(923asahi)

巨大で遺伝子多い「パンドラ」発見
 今夏、米科学誌サイエンスの表紙をウイルスの写真が飾った。仏エクス・マル
セイユ大学ジャンミシェル・クラブリ教授らが見つけた巨大ウイルス「パンド
ラ」0ウイルスとしてはけた外れの大きさで、生物の常識を揺るがす発見とい
う0このウイルスはいったい、どんなパンドラの籍を開けようとしているのか。
 パンドラウイルスは、チリ中部の河口と、豪メルボルン近郊の浅い他の底で1種類ずつ見つかった。どちらも単細胞生物のアメーバに感染し、人間に害はないらしい。栴円形で、長径が1マイクロメートル(マイクロは千分の1ミリ)、遺伝子の数は2500以上。最も小さい細菌「マイコプラズマ」より10倍も大きく、遺伝子数は5倍になる。
 巨大ウイルスの発見はこれが初めてではない。元祖は2003年、米サイエンス誌で紹介されたミミウイルスだ。1993年に見つかった当初は、その大きさ(0.7マイクロメートル)から細菌と考えられた。
 だが、全ての生物にあるリボソームRNAが見当たらない。リボソームRNAは、写し取られた遺伝情報からたんばく質を合成する、生命の根本を支える物質だ。その後、別のチームが電子顕微鏡で正体をとらえた。生物に似つかわしくない正多面体で、ウイルスと判明した。ウイルスは細菌よりはるかに小さくて濾紙も通り抜ける、だからこそ人類は正体をつかまえられず、長らくインフルエンザや天然痘などのウイルス感染症に苦しめられた−。そんな常識を覆したウイルスに、細菌と「よく似た(mimic)」の意味でミミと命名された。
 その後、ミミのゲノム解析をしたのがクラブリ教授だ。遺伝子は千個。博士研究員として解析に関わった東工大の緒方博之特任准教授(生物情報科学)は「ウイルスなら数個から数十個が一般的。ウイルスの見方を覆された」と振り返る。
 クラブリ教授らは他の巨大ウイルスの追跡に乗り出し、2010年にはミミより遺伝子数が多いメガウイルスを発見。さらに今回、パンドラを探り当てた。
 真核生物と同じ特徴
 ウイルスは一般に、遺伝情報を持った核酸が、たんばくの殻(カブシド)に包まれた単純な構造だ。自らたんばく質を作れず、他の細胞に寄生しないと増殖できないことから、細菌などの「本物の」生物とは異なる存在と考えられてきた。
 だが、教授らがミミを調べると、わずかだがたんばく質をつくる遺伝子が確認できた。パンドラの遺伝子には、真核生物に特徴的なイントロンという、たんばく質の合成に寄与しない遺伝子領域が含まれることも判明した。
 それに加えて、細菌なみの大きさだ。寄生するなら、自分の機能をそぎ落として単純な方が都合がいいはず。もともと大きいものが、寄生の居心地の良さの中で退化したのか、それとも、寄生生活を通じて新たな機能を獲得し、複雑かつ大きく進化してきたのか。巨大ウイルスの独特の構造について、緒方さんは「僕たちの知らない何かがウイルスの中で行われていることを示すものではないか」と言う。
 「ヒトの起源」仮説も
 「生物」は現在、原核生物、古細菌、真核生物の3種類(ドメイン)に大別されている。人間や動植物は、細胞内に核を持つ真核生物の仲間。原核生物、古細菌は核こそないが、膜に囲まれた細胞構造を持ち、細胞分裂を繰り返して増える。クラブリ教授らは巨大ウイルスを、生物の「第4のドメイン」に追加するよう訴え、論争を巻き起こしている。
 生物と無生物を分けるものは何か。クロレラに盛業≒する巨大なクロロウイルス(直径0.2言まメートル)を研究する広島大・山田隆教授(生物工学)は、ウイルスは自ら増殖するためのエネルギーを作れないため、「生物でないことは確か」と言う。
 ただ、クロレラがクロロウイルスに感染するとヒアルロン酸を生成できるようになるなど、ウイルスに感染することである種の機能を獲得する生物もあり、「生物の進化の過程でウイルスが非常に重要だったことも間違いない」。、東京理科大の武村政春准教授(分子生物学)は「クラブリ教授の主張は突拍子もない話ではない」と受け止める。
 武村さんは01年、真核生物の細胞核の起源は、はるか昔にウイルスが持ち込んだ構造だと論文で発表した。天然痘ウイルスの仲間が感染先の細胞の核に入らず、1細胞質の中で自己複製できることに着目0核を持たない細胞にウイルスが共生した結果、核となり、真核生物ができたという仮説だ。ウイルスのおかげで今日の私たちがあることになる。
 巨大ウイルスの発見をきっかけとした「生物か、無生物か」の論争は、生物の起源への問いかけにつながっている。
              (冨岡史穂)

石田徹也展ノート、夢のしるし  足利市立美術館(918asahi)

 牛井屋での食事を「車の燃料補給に近い」ととらえ、客の口にガソリンの給油ノズルを突っ込む店員を空想。ノートにはそんな絵のアイデアが多く詰まっている−。現代人の悲哀を時に辛辣に、時にユーモラスに措いた石田徹也(1973~2005)。代表作約110点とともに、ノートなどに措かれた石田のアイデアを初公開する。どこかブラックで示唆に富む作品の源泉を、51冊のノートでたどる。(岡山朋代)

●飛べなくなった人(1996年、静岡県立美術館蔵)
 今にも泣き出しそうな表情の男が、飛行機と一体になっている。頭にはプロペラ、両手を広げて離陸態勢をとるも、地面から伸びた金属の支柱と機体がつながっており、飛ぶことはできない。石田のノートによれば、舞台は「とまっているゆうえんち」0遊具として使われなくなった飛行機はペンキがはげており、金属部分もさびている。スーツを着た男は、夢破れたサラリーマンだろうか。「とびたいけど、とんでいけないイメージ(もの悲しい)」と石田もメモに残しているが、「解釈は鑑賞者に委ねられていますし、彼もそう望んでいたようです」と学芸員の福島さんは話す。

 ●飛べなくなった人 アイデアスケッチと下絵(左から、1996年)
 スケッチでは、機体のさびや「真っ崖マ」等、モチーフや場面に関する詳しい設定が残されている0下絵では色をつけ、場面の雰囲気をつかもうとしたという。

2013年9月12日木曜日

「気合い100連発」震災描く(911asahi)

若手美術家集団
「Chim↑Pom」エリイさん

 1日まで六本木ヒルズの森美術館で開催していた「LOVE展」に、「気合い100連発」という作品を出していました。東日本大震災直後に、福島県相馬市で撮った映像作品です。
 現地で出会った地元の男の子たちと、ぶっつけ本番で完成させました。円陣を組んで、一人ずつ気合を発していく。「復興頑張るぞ」から始めたのですが、次第にアドリブに追われて「車欲しい!」とか「彼女欲しいー」などと出てきます。ニューヨークを含む国内外で上映したのですが、多くの人が見て泣いていました。
 私たちがつくっている現代美術は、今みんなで一緒に現代を共有している感覚を表現できる。「気合い100連発」では被災者の本音が出て、見ている人が震災のリアルさを感じ、心を震わせたのではないでしょうか。
 震災関係では、写真作品「RedCard」もあります。メンバーの一人が作業員として東京電力福島第一原発の現場で働き、サッカーのレッド九−ドを掲げたものです。この作品は後世の人がひと目見て、あっ、あの時代にこんなことがあったんだと分かる。美術作品の役割の一つを果たせるものになったはずです。
 私と現代美術の摸点は、高校の授業で行った「横浜トリエンナーレ2001」です。銀色の玉を海に浮かせた草間彌生さんの作品などがありました。リビングに飾ってある西洋絵画だけでなく、頭の中で思っていることを形にする美術があることを知った。意味不明にみえるけれど、明快なところが面白いと思い、自分でも始めたんです。
 今、日本社会で気になっていることですか? それは、写真撮影をここ渋谷にした理由と関係します。大好きな街だけど、歩いている人のことを考えないで開発している。わざわざ遠回りしないと駅に行けない。何でこんな動線にしたんでしょうか。
                  
 センター衝のネズミを捕らえて剥製にした「SUPER RAT」も、渋谷で遊んでいて生まれたんです。まだ、どうできるかは分かりませんが、渋谷のこの動線問題も作品にしたいですね。普段はめんどくさがり屋ですが、美術のためなら、あらゆることをやります。カンボジアでは地雷撤去の作品も作りました。
 自分のライバルは、他の誰かではなく、一手間をかける気力でしょう。そんな人生の姿勢を見せつつ、芸術家として生きていく覚悟です。
       (聞き手・高野真吾)

刺激・挑発の新「指輪」(910asahi)

ワーグナー生誕200周年バイロイト

 ドイツの作曲家ワーグナーの生誕200周年の今年、ワーグナー上演の殿堂、バイロイト音楽祭では7年ぶりの新演出「ニーベルングの指輪」4部作に注目が集まった。ドイツ全土でワーグナー上演が相次ぐ中、大いに議論を巻き起こした新「指輪」はバイロイトの存在感を改めて示すものとなった。
 旧東ベルリンの劇場フォルクス・ビューネを率いるフランク・カストルフは演出の狙いを「石油を巡る闘争」と説明。ただ、石油に関連するモチーフは現れるものの、人間の醜い抗争や社会主義の理想の失敗といったテーマが前面に出た。
 舞台は米国のガソリンスタンド兼モーテルからバクー油田の石油採据施設、ベルリンのアレクサンダー広場、ウォール街などに設定され、回り舞台を使った巨大な装置は非常に印象的。映像を多用し、歌っていない歌手の演技までも同時並行で舞台に映し出す手法は、特に演劇的な「ラインの黄金」で成功した。
 だが、挑発的な演出で有名なカストルフは本分を忘れない。英雄ジークフリートがカラシニコフで大蛇フナフナーを撃ち殺したり、巨大なワニが舞台に現れて森の小鳥をのみ込んだり、と観客を挑発。終演後には怒りのこもったブーイングの嵐を受けた。一方、バイロイトに初登場の指揮者キリル・ベトレンコは観客からも批評家からも絶賛された。ブリユンヒルデ役のキャサリン・フォスターやウォータン役のウォルフガング・コッホら歌
手陣も実力を示した。
 世界のワーグナーファンの注目を集めるバイロイトの「指輪」は1976年にシエローが演出した「世紀の指輪」と比較されるのが常だ。カストルフ演出は、最近の「指輪」の中では刺激にあふれていることは間違いない。批評も「思いつきを乱雑に提示」 (DPA通居)から「近年、最もインスピレーションに富んだ指輪」 (南ドイツ新聞)まで大いに割れた。(バイロイト=松井健)

純度増す「どう描くか」(904asahi)

福田美蘭展
 
 何を、どう描くか。いや、どう措けるか。そこが、具象絵画のポイントの一つといえる。画家の福田美蘭(50)の場合、後者については何の心配もないだろう。1980年代後半のデビュー当時から、目の前の事物であれ、架空の存在であれ、どんなものでも実に達者にみずみずしく描く技量を見せてきた。
 だから作家自身も周囲も、「何を」に関心を抱きがちだったのではないか。90年代以降の代表作に新作を加えた約釦点の今回の展示を見れば、その関心は、おもに画面の外に注がれていると言っていい。
 ミレーや黒田清輝の名画を引用して、構図を変え、あるいは措かれた場面の前後を想像して再解釈を施す。安井曽太郎が画布に向かう姿を彼の画風さながらに仕上げた一枚など、その描写力、機知には驚く。一方で日常的な広告に着目したり、9・11に言及する社会性の強い作品を発表したり。常に絵画の枠を広げることに挑んできた。
 そんななかに、青く美しい富士山が、別撮りしたような楼の花のフレームの奥にたたずむ一枚がある=写真上。絵はがき的美意識をわざと強調したような表現だが、気がつけば、山頂が大きくえぐれている。タイトルは「噴火後の富士」。制作年は東日本大震災前の2005年だ。ここでも抜群の表現力で、人工的にしてのほほんとした美しさに、危機を潜ませている。同時に、時代を予知する表現者の感度に恐れ入る。
 震災後の新作群も多い。中では、例えば被災地の海底を生きるアサリを措いた作品などは、「何を」というテーマを離れても絵画として十分に魅力的だ。というより作者は、「どう描くか」を純粋に問う方向に臍み出しっつあるのではないか。そう強く思わせるのが、「風神雷神図」(13年)だ=同下。
 宗達画を元にしている点では従来の流れにあるが、その描写は、名画の「空間」や「感情」を福田なりの感度でどう受け止め、絵画としてどう表現するかに集中しているように映る。この純度の高い試みから、フランシス・ベーコンを思わせるねじれた身体と、脱構築的で流動感ある絵画空間が生まれている。
 作者の今後の方向性を考える上で、大切な作品になるに違いない。そんな予感すら抱かせる一枚だ。(編集委員・大西若人)
 ▽29日まで、東京・上野公園の東京都美術館。9、17、24日休み。

2013年8月29日木曜日

菌この奇妙な存在(827asahi)

若手研究者ら「珍菌賞」創設

  「地味」 「気持ち悪い」などと敬遠されがちな菌類に注目してもらおうと、若手研究者らが「日本珍菌賞」を創設した。一般人の理解を得るのが目的のはずだが、上位に並んだ顔ぶれを見ると、やっぱり……。
「奥深い世界、共有したい」「林の申でこのキノコと出あった時は神々しさに見とれた」「線虫に寄生する菌は数あれど、これほどユニークな感染の仕方は見たことがない」
 簡易投稿ブログ「ツイッター」で交わされた選考過程のやりとりだ。研究者たちに小学生まで交じり、自分の「一押し」を書き込んでいた。
 珍菌賞は、若手研究者でつくる「菌学若手の会」が、奥深い菌の世界を広く知ってもらいたいとネット上で企画した。メンバーの一人で、国立科学博物館植物研究部(茨城県つくば市)の研究者、白水貴さん(31)は「ワクワクする気持ちを共有したい。自然の慎
の深さを感じれば、人間として生きやすくなるんじゃないか」と熱い。
 ツイッターやフェイスブックで候補を募り、反響の大きさを加味して蕃査した。1位に輝いたのは「エニグマトマイセス」。トビムシの精包に寄生し、その精子を食べる菌だ。6月にあった日本菌学会の懇親会で表彰式が開かれ、研究している出川洋介・筑波大助教に、植物学者、南方熊楠のデスマスクが贈られた。
 このはか、グロテスクな「ヤプニッケイもち病」が2位、ひわいな形と名前を持つ「タケリタケ」が堂々の3位に。アリに寄生し、2011年に新種登録されたばかりの「コブガタアリタケ(写真は「日本冬虫夏草の会」提供)が4位、福島第一原発事故の旧撃滅区域内にある阿武隈山地に生える希少種「センボンキツネノサカズキ」が5位に入った。
 遊び心から生まれた企画だが、背景には、研究者としての危機感もある。すぐに役に立つ研究が重んじられ、基礎分野への研究費は先細る一方だ。「地道な研究が、何百年後かに人類に貢献する可能性もある。フアンを増やし、基礎研究への理解が広まる一歩になれ
ば」と白水さんは話す。来年以降も毎年実施する予定だ。    (仲村和代)
菌類
 細胞が糸状に連なった菌糸や、酵母のような単細胞からなる生物。キノコやカビ、酵母などが含まれ、「細菌」と区別するため「真菌」とも呼ばれる。自然界で動物の死骸や植物を分解するなどの役割がある。地球上に約150万種が生息すると言われるが、確認されているのは約10万種に過ぎない。毎年、1千以上の新種が発見されている。

美術学科オープンカレッジ第4弾!!!!

今日の講座「絵画と仕事─ARTな世界の過ごし方」を終えて、
参加者全員ビーナスになったつもりで記念撮影!

2013年8月28日水曜日

紙の魅力存分に「PAPER」展(827asahi)

驚きと楽しさと。東京・目黒の目黒区美術館で9月8日まで開催中の「PAPER」展には紙を素材に6作家が出品している。

 第1室で出あうのは、既に製品化されているデザイナーの表現。トラフ建築設計事務所「空気の器」は、切り込みを入れた紙を広げると器の形になる。天井からつるされた色とりどりの器が、美しい。寺田尚樹「テラダモケイ」は建築模型に添える、100分の1の紙製の人間や動物、家具。組み合わせてデートや面接の場面を作っているのも楽しいし、気がつけば、階段の踊り場に動物の行進が=写真上。
 美術家は鈴木康広ら。なかでも植原亮輔と渡過良重の「時間の標本」が魅力的。古書の見開きに措いたチョウの絵の周囲を切り抜き、今にも飛び立ちそうだ=同下。

歴史と記憶と(827asahi)

映像と言語、相互反応
米田知子展

 駅のホームがいくつも連なるさまを真横から収めた写真があり、秋の草原にたたずむ席を写した一枚がある。東京都目黒区の都写真美術館での写真家・米田知子(1965年生まれ)の個展には、対象を精密な構成で淡々と捉えた写真が並ぶ。
 配布された作品リストを見て、前者は伊藤博文が暗殺された中国の現場、後者は東日本大震災後の福島県飯館村の風景だと知る。
 米田は「写真イメージと言語の関係に興味がある。衰勢だけではなく、歴史性や社会性、さらには受け止める人によって『見えること』は変わる」と話す。悲劇的な事件の現場も多く、「恐ろしいことば、どこでも起きうることを示したい」。今回は、アジアにか
かわる作品を集めている。
 兵庫県に生まれ、現在はロンドンなどが拠点。両親から聞いた戦時中の話などの影響もあって、歴史や記憶に関心を持つようになったという。一方で、「写真としてのイメージの強さ」も重視する。「まず関心を引き出したい」からだ。
 イメージの強度なら、歴史上の人物が使用した眼鏡と、その人に関わる文章を一つの画面に収めた連作が挙げられる。今回も、坂口安吾や安部公房の眼鏡を使った新作が登場。見る側はタイトルを知った後に、おなじみの彼らの肖像を思い浮かべつつ、再度画面と向
き合うことになる。
 実はタイトルを知って驚いても、米田の写真自体は変わらない。変わるのはむしろ、次の写真を、あるいは他の写真家の作品を見る際の、見る側の態度だろう。米田の者現は、そのとき初めて完措するともいえる。 (編集委員・大西若人)
 ▽図録は平凡社から。

空気に黒い糸で描く塩田千春展

 高知市の高知県立美術館で個展が開かれている現代美術家・塩田千春(72年生まれ)。
展示空間をまるごと使うインスタレーション(空間展示)の手法で、彼女の心象世界へ
といざなう。
 大阪好守生まれ。ここ十数年間はベルリンを拠点に「記憶」や「死と再生」などを主
題に制作を続けている。
 両親は高知県生まれで、幼い頃から夏休みなどに両親と帰省し、高知での思い出が創
作の原点と塩田は振り返る。
 色濃く表れているのが、高知の伝統的な婚礼衣装を一対の鉄枠に収め、黒い糸でクモ
の巣状にからめた「存在の状態」だろう。婚姻を象徴しているのは疑いない。黒い糸を
使う表現について「空気のなかに線で描く」と言う。
 展覧会の副題にもなっている「ありがとうの手紙」と題されたインスタレーションは、約2400通の手紙か、黒い糸に絡み、結ばれ、高さ4手元の部屋いっぱいに展示されている。疾風に舞い上がるかのように。
 親しい人たちへ感謝の気持ちをつっった手紙は、展覧会のために高知の人たちから公
募した。「いつも支えてくれてありがとう」「お父さん、お母さん、産んで育ててくれ
てありがとう」
 手紙を読みながら巡っていると、記憶の申の誰かと話をしている自分に気づいた。「高知でなければできない、私の展覧会」と語った塩田の胸の内が、少しだけわかった。   (森本俊司)

2013年8月22日木曜日

「歌舞伎イラストレーション」展




TIS (東京イラストレーターズソサエティ)主催、恒例の展覧会
今年は新装なった歌舞伎座に引っ掛けたか「歌舞伎」がテーマ。
美術学科主任の建石修志も出品しています。

2013年9/3(火)~10/3(木)
銀座クリエイションギャラリーG8
http://rcc.recruit.co.jp/g8/exhibition/g8_exh_201309/g8_exh_201309.html

独の写真家グルスキ−、日本で初個展(821asahi)

巨視と微視、自在に切り替え

 現代写真に新たな表現は可能か。その間いに、作品そのもので答えるのがドイツの写真家アンドレアス・グルスキーだ。日本初の個展が東京で開かれている。
 グルスキーは1980年代半ば、風景の中に違ぶ人々を大型カメラで撮影したシリーズを制作。広い画角と細密な描写が併存する写真で注目された。90年に場立ちの人々で厳然とする「東京証券取引所」を制作したころから、モチーフが画面全体を生め尽くす作風に転じた。本展は現在にいたる彼の歩みを、巨大なプリントを中心に65点でたどっている。
 92年ごろからデジタル技術を導入。その作品は広大な空間を高密度かつ高精細に描出する、巨大なイメージへと飛躍した。例えば、カラフルな商品が広い店内にひしめく「99セント」(99年)は、従来の写真術ではありえない、しかし圧倒的なリアリティーを構えている。
 驚くべきは巨視と微視を自在に切り替える、その視点。近作の「オーシャン」シリーズは、南極大陸やインド洋全体を視野に収める。衛星写真を利用し、繊細にコントロールした海洋の深い色彩に目を奪われる。.続く連作「バンコク」は、一転して川面の一部を切り取る。抽象絵画を思わせるが、細部をみればゴミや油膜が浮かび、現実に引き戻される。一連の作品に社会批評を読み取ることもできる。それは、グルスキーが雑誌や新聞から収集した画像から着想を得ていることに由来する。だが、その視点は人間の営みを追うジャーナリズムとは異なる。あえて言えば、ヒトの行動を観察する超越者の視点だろう。それゆえ、グルスキーが創出するイメージは魅惑的であると同時に戦慄的でもある。
(西岡一重)
 ▽9月16日まで。東京・六本木の国立新美術館。火曜休館。

「内臓感覚」展(807asahi)

体内の感覚視覚で表現

 刺激的な映像やスマホの画面など視覚優先の情報が駆け巡る今の世にあって、逆に身休感覚や皮膚感覚を生かした、あるいは題材とした美術表現も目立っている。この展覧会はさらに踏み込み「内臓感覚」。内外の13 作家には、一度見たら忘れ難い強度を備えた表現が多い。
 草間蒲生(1929年生まれ)は60年前後の網目の絵画とともに、布製の小立体100点による「雲」(鎚年)を出品=写真上。色こそ白いものの、肉片や内臓のようでもあり、うごめ
くような存在感に圧倒される。
 今廣は解剖学者の故・三木成夫の考察に刺激を受け、根源的で精神にも関わるという「内臓感覚」を手がかりにしている。こうした存在を、視覚表現で伝えうるかがポイントだろう。
 オランダのサスキア・オルドゥオーバース(71年生まれ)による、白い抽象彫刻が滴り溶けるような映像には、ぬるぬる感を味わ一つ。スウェーデンのナタリー・エールベリとハンス・べり(ともに78年生まれ)は、生々しい身体が登場する、コミカルにして毒気のある粘土のアニメを展開。志賀理江子(80年生まれ)は写真の表面にぬめりすら感じさせる。
 女性作家の表現が目立つのは、「内臓」を意識することが多いからか。男性では、体
にハンディを抱えつつ花の生理に向き合った故・中川幸夫の臓器のようなガラス器や、胎児を思わせる人物像を毒々しい色づかいで描き出す加藤泉(69年生まれ)の絵画が見逃せない。
 そして、スイスのピピロッテイ・リスト(62年生まれ)が円形の展示室の全壁面に映像を投影した「肺葉(金沢のまわりを飛び交って)」 (09年/13年)=同下。泥水の中を歩んだり、果物を手でぐじゃぐじゃに握ったり、花を食べたりといったイメージが鮮やかな映像と気だるい音楽とともに続き、自分も体験している感覚に。あるいは作者の体内を巡る味わいか。
 多くに通じるのは、突き詰めた内側が「クラインの壺」のように外側に表出した感触や、視覚表現が「ぬるぬる」といった擬態語で表される触覚を導く快楽、官能があること。これぞ表現の妙味といえるだろう。
 環境汚染、難病、放射線にさらされる現代。身体、そして内臓は表現の集約点の一つとなっている。 (編集委員・大西若人)
 ▽9月1日まで、金沢市の金沢21世紀美術館。19、26日休館。図録は赤々舎から。

2013年8月17日土曜日

オープンカレッジの3弾!

遊びのシュルレアリスム─偶然から生まれる美術
フロッタージュ、デカルコマニーシュルレアリスムが開発した方法を楽しむの図。

2013年8月13日火曜日

美術学科オープンカレッジ

8/16日 12時よりー美術学科オープンカレッジ第3弾!!!
「遊びのシュルレアリスム─偶然から生まれる美術」
デカルコマニー、フロッタージュなどシュルレアリスムが発見した方法を
遊んでみる。遊びながら、想像力と創造力について想いを巡らせよう。
https://www.ndc.ac.jp/opencollege/

2013年8月7日水曜日

2013夏のオープンカレッジ始まりました!

こんにちは、美術学科の太田です。


8月から学科別のオープンカレッジが始まりました。
美術学科の授業の様子が簡単ではありますが、体験出来ます。
ぜひご参加下さい。

本日、8/7はドローイングの講座でした。

















参加者の方々はもくもくと作業‥‥10分間スケッチなどもあったので、
沢山の作品が仕上がりました。

次は8/8の石にペイントです。
通常授業は紙に描くときのが多いのですが、今回は石に絵具でペイント。
自然物の形をいかして動物を描いて見ましょう。

参加お待ちしてます。

2013年8月5日月曜日

桜井進の数と科学のストーリー(804asahi)

計算の世界「i」で縦横無尽

 「虚数」という不思議な数があります。2乗すると負(マイナス)になる数です。1(;世紀のイタリアの数学者ジュロラモ・カルダーノ(150176)によっ七発見されていましたが、iXi1となる虚数iは、長い間数学者の間でもリアルな存在として受け入れられませんでした。
 私たちが現実世界で出くわす数は「実数」です。体重は70キロ、気温−5度、1つレ=9802円、12カップなどがそうです。実数は、正の実数も負の実数も2乗すると正
の実数になりますね。
 2乗して一1になる「虚数」と「実数」を複合した「複素数」と呼ばれる数の世界があります。「複素数」は実数xyと虚数iを使い、+yiと表される数です。16世紀、解を持たないとされていた方程式にも解を与えられるように導入された数が「複素数」です。ここから発展してドイツの数学者カール・フリードリヒ・ガウス(17771855)によって、
「どんなn次方程式も複素数の範囲に解を持つ」という「代数学の基本定理」が証明されました。 一方で、これまでこの連載に登場してきた三角関数、一指数関数、対数関数も、虚数を通して深く結びついていることを明らかにしたのが、レオンハルト・オイラー
170783)です。.有名な「オイラーの公式」ですね。オイラーは、「i」という乗り物で計算の世界を縦横無尽に旅をして、新たな地平線にたどりつきました。単に「方程式の解が表現できるようにする」という目的をこえ、虚数の威力を示したのです。
 20世紀、人類は量子力学と呼ばれる新しい理論を手にいれました。ここでは複素数が決定的な役割を演じます。数学を超えて素粒子を探求する物理学にまで虚数と複素数の威力が及んだのです。しかし、小数などの実数を使い慣れるまでに時間がかかったのと同様、虚数と複素数もまた、私たちがリアリティーを感じるまでには長い時間がかかりそうです。(サイエンスナビゲーター)

2013年8月2日金曜日

制作風景動画「フェルメールの少女(仮題)」Vol.6

こんにちは美術学科の菅原です。
制作風景動画のVol.6です。

制作風景動画「フェルメールの少女(仮題)」Vol.5

こんにちは美術学科の菅原です。
制作風景動画のVol.5です。

大竹アート熱風トリプル(731asahi)

香川県内3カ所で大規模展示
廃棄物・記憶多彩に

 絵画や立体から写真、スクラップブックまで、多彩かつ旺盛な活動を続ける現代美術家・大竹伸朗(57)がこの夏、熱い。イタリアで開催中のベネチア・ビエンナーレに続き、香川県内3カ所で同時に作品を発表しているのだ。大規模な回顧展と新作・近作の展示が二つ。濃密でエネルギッシュな作品世界を展開している。
 大竹は、「既にそこにあるもの」と呼ぶ既成の事物、それも廃棄物やゴミ、見捨てら
れた風景といったものに感応し、積極的に作品に取り入れてきた。ベネチアに出展申
の、古雑誌やチラシなどを貼り込んだ「スクラップブック」シリーズが代表作だ。
              
 高松港から船で約20分の女木島に設置された新作「女根/めこん」も、その延長上に
ある。休校中の小学校校庭に立つオレンジ色の巨大なブイ(浮標)。頂上にはヤシの木
が植えられ、足元では鉄板で覆われた小屋に樹木の根や様々な植物が貼りつく。ブイは
大竹が拠点とする愛媛県宇和島市の海岸に漂着したもの。廃棄された人工物と熱帯系の
植物が絡み合い、「これまで無かったもの」に変化していくことを予感させる。
 廃棄物は、ここ数年の作品を中心とした大規模個展「ニューニュー」でも目を引く。
会場はJR丸亀駅前にある丸亀市猪熊弦一郎現代美術館。その屋上に「宇和島駅」の看
板が掲げられる。会場入り口の吹き抜けの空間には、北海道のボウリング場に設置され
ていた巨大なピンが立つ。いずれも、譲り受けた廃棄物にネオン管などを組み込み、風
雪にさらされた事物に新たな命を吹き込んでいる。
 「既にそこに為るもの」に惹かれる理由を、大竹は「記憶や時間の層が既に含み込ま
れているから。そこから新しいものを作ることに興味がある」と話す。
 「焼憶」は、自作の絵画や制作メモなどを陶のタイルに焼き付けた立休の新作。その
制作を通して、自らの作品に通底する「記憶」というテーマに改めて着目したという。
そこから組み上げたのが、高松市美術館で開催中の回顧展「憶速」だ。
 1960年代から現在までの作品534点を七つのセクションに構成。多種多様な素材とメディアを駆使し、有機的につながる作品世界を整序して見せている。
 興味深いのは「スケッチブック一日常の風景」と「貼既にそこにあるものと記憶の
層」のセクション。初公開となる、77年から現在までのスケッチブック96冊は、世界を
巡る美術家の「旅と日常」を映す。その中で見いだされた膨大な事物や風景のイメージ
が、やがて平面や立体に貼り込まれ重層的な記憶を織りなしていく。「貼」の作品群が
放つ、混沌としたダイナミズムに目を奪われる。(西岡一正)

 ▽「女根/めこん」は瀬戸内国際芸術祭2013の参加作品。夏会期は91日まで。秋は
105日~114日。「ニューニュー」展は114日まで。「憶速」展は91日まで。

澄川喜一「そりのあるかたちー1」(731asahi)

木の素材的宿命、生かした

 木は切ったり、水分が抜けたりすると、反り、割れるという素材的宿命を持っています。それを形に押し込めては、木を殺してしまう。木の美しさを生かせないかと考えたら、「そりのあるかたち」になったんですよ。これが第1作です。
 脚のある水平面の上に反りのあるものが、少しズレて載ると面白いな、と。空間を大胆に切って視覚的な音楽を奏でられないかという狙いもありました。
 木に関心を持ったのは、山口県岩国市にある旧制の工業学校に通っていた頃です。錦帯橋を見て木造建築に興味を抱き、古い建物を調べました。五重塔なんかは、木の性質をう
まく生かして組み上げているんですよ。これが、彫刻をやろうと思ったきっかけです。
東京藝術大では木彫の平櫛田中先生にも教わりましたが、粘土を使う塑像が中心。新制作展に出品し始めても、当初は塑像を出していました。木を使い始めたのは、1961年にアトリエを持ってからです。
 この作品を新制作展に出したときも不安でしたが、幸い、その後、平櫛田中賞をいただきました。誰かが「錦帯橋だろう」と言いましたが、どこかで意識していたのかもしれま
せん。
 私は田中先生がご存命中の最後の受賞者です。先生は私の作品について「分からんなあ」と話されたそうです。でも先生の場合、「分からん」は面白いという意味。芸大退官
のときも、「芸術は自分で探すもの」とおっしゃいました。人のまねをするな、新しいものを作れという教えで、ずっと大切にしてきました。
 今も、もっといいものができるのではないか、と続けています。それが、デザイン監修を務めた東京スカイツリーにもつながりました。秋の新制作展にも「そりのあるかたち」
を出します。 (聞き手・大西若人)
 すみかわ・きいち
1931年、島根県生まれ。東京芸術大学彫刻科卒。同大教授、美術学部長、学長を歴任した。カーブした木を組み合わせた抽象彫刻の方、石や金属による野外彫刻でも知られる。2004年に日本芸術院会員、08年に文化功労者。

現代アートの楽しみ方 藤田令伊(731asahi)

異なる世界への「気づき」

 前回、現代アートを見るコツとして「わからない」にこだわらず、作品に「問いかけ」てみることを提案しました。じつは、「わからない」にこだわらないことは作品に対するオープンマインドを、「問いかけ」は理性的な見方(考えること)を促すものでした。そのほか、感性的な見方(感じること)なども交えて私たちは現代アートを見、気分転換から知的刺激までさまざまなものを得ています。
 得られるもののなかでも特筆すべきなのが「気づき」です。当たり前のことですが、ふだん私たちは自分自身の価値観の世界に生きています。しかし、私の価値観とあなたの価値観は同じではありませんから、同じ時代、同じ社会で暮らしていても、あなたと私はいわば別世界にいるようなものです。にもかかわらず、私たちはそのことに気づかず、ついつい自分の価値葡でのみ物事を見がちです。
 現代アートは直感的、実感的に異なる世界の存在に気づかせてくれます。写実の作品は巨大な女性の像です。人間がただ「大きくなる」というだけで、圧倒されるものがあります。そして、彼女と自分の世界の差異に理屈抜きに気づかされます。
 多様性の時代といわれ、共存がキーワードのいま、自分とは異なる他者に気づき、共感や理解を試みるのは重要で必要なことです。現代アートはそうした時代のテーマにも「気づき」の力で応えうるものなのです。(アートライター)

2013年7月31日水曜日

制作風景動画「フェルメールの少女(仮題)」Vol.4

こんにちは美術学科の菅原です。
制作風景動画のVol.4です。

2013年7月30日火曜日

制作風景動画「フェルメールの少女(仮題)」Vol.3

こんにちは美術学科の菅原です。
制作風景動画のVol.3です。
この動画は一枚の絵がまっさらな状態から完成する迄の製作風景をドキュメンタリー風に追跡した動画です。
ここで描かれている作品は「ミメーシス(模倣芸術)」というテーマの展覧会に出品する為のものになります。「模倣」というものを単なる"パクリ"ではなく、創作行為のひとつとして積極的に捉えるという主旨のものです。ここではフェルメー­ルの「真珠の耳飾りの少女」をモチーフに再構築しています。

2013年7月25日木曜日

現代アートの楽しみ方 藤田令伊(724asahi)

ひるまず、問いかけてみる

 「何でもあり」で「超多様」な現代アート。では、私たちはこれをどう見ていけばいいのでしようか。ここでは二つのコツをご紹介しましょう。
 第1のコツは「わからない」にこだわらないことです。現代アートの作品は何を表現しているのかわからないものがよくあります。そのため、わからないことに引っかかってしまうと、そこから先へ進めなくなってしまいます。そこで、わかる・わからないはさておき、現代アートはもはや何でもありなのだと割り切って見、感じるようにするのです。それが突破口になります。この方法は、美しいかどうか、ほんとうに値打ちがあるのかどうか、そもそもこれがアートといえるのか、など、さまざまな観点に応用できます。
 第2のコツは、作品に「問いかけ」てみること。現代アートの作品はただ見ているだけではピンとこない場合があります。そういうときは作品に対して「問いかけ」てみると、とたんに作品が何かを語り出したりします。写真はアニツシュ・カブーアの不思議な作品ですが、たとえば、「なぜ、このコンクリトの壁に黒い楕円が必要だったのか?」と問うとします。すると「黒い楕円がなかったらどうなっていたか?」とか「赤い楕円だったら?」というふうに、作品に迫る取っかかり小が得られます。そして、その取っかかり"をもとに見方を深めていくことができます。
 現代アートを見るのに受け身は禁物です。能動的に作品と向き合うことで真価が見えてきます。ぜひ、あなたも「わからない」にひるまず、現代アート作品に何かを「問いかけ」てみてください。(アートライター)

2013年7月23日火曜日

現代アートの楽しみ方 藤田令伊(717asahi)

超多様に発展

 現代アートはどのように発展してきたのでしょうか? 当初、現代アートは「情」と「理」という人間の二つの面を表現する二つの流れとして展開していきました(「情」の流れはマティスが、「理」の流れはピカソが代表格です)。
 ところが、二つの流れは次第に入り交じるようになり、また、それらとは別の考え方の表現も現れ始めます。195070年代にはその儀向が著しくなり、ポップアートやミニマルアートといったさまざまな表現が乱立します。表現の方法も絵画だけではなく、映像や立体としかいいようのないものなど多彩になつていきます。
 80年代以降、世の中が高度成長期のような単純な時代から複雑系の時代へと移行していくと、現代アートも混沌状況を呈します。"規範""標準"といったものは消滅し、現代アー
トは「中心なき時代」へと突入します。80年代以降をとくに「コンテンポラリーアート」と呼ぶことがあります。
 そうしたなか、日本の現代アートはどうなっているのでしょうか?最近目立つ一つの傾向が現れているように思います。それは、物静かで非攻撃的な表現を特徴とし、穏やかさを好む日本人の心性によくなじむアートです(私はこれを「J一クワイエット」と呼んでいます)。クワクポリョウタもそうした一人です。写真は、模型列車のヘッドライトが線路脇のモノの影を次々に映し出していくというジオラマ作品です。列車の移動につれて、影のかたちや大きさが移り変わっていきます。そのさまは、世の無常など、さまざまなことを想起させます。
 そんなふうに、時代を反映して超多様になっているのが、いまの現代アートです。
(アートライター)

「真の現実」を探して(717asahi)

〈遊ぷ〉シュルレアリスム

 シュールレアリスムは1920年前後に始まった芸術運動。日本では「超現実主義」と訳さ
れる。サルバドール・ダリの時計が溶ける絵画などが典型的なイメージとなり、現実離れした奇異な状態を指す「シュール」という言葉まで現れている。この、知っているようで本質をとらえがたい芸術運動を、現在の視点から再考している。監修した巌谷國士明治学院大名誉教授は、図録でこう説く。「超現実」の「超」は「チョーかわいい」というとき
のニュアンスに近く、「超現実」Jは眼前の現実に内在する「真の現実」を指す。したがっ
て、シュールレアリスムは「真の現実」を目指す物の見方、生き方である、と。
 そんなシュールレアリスムを読み解くキーワードとして、「遊び」と「ブリコラージュ」を挙げる。
 「遊び」は参加した作家たちにとって必要不可欠な活動だったという。実際にチェスやトランプを楽しむとともに、それらをモチーフにした作品=写真上、手前はマックス・エルンスト「王妃とチェスをする王」=もある。「言葉遊び」も制作の重要な要素。「モナリザ」の図版にヒゲを措き加えたマルセル・デュシャンの「LHO.0.Q.」は、仏語で「彼女のお尻は熱い(好色だ)」と響く。既成の価値に逆らう参加者たちは、「労働」に対立する「遊び」を原動力として「超現実」に向かった、と見る。
 ありあわせの材料による手作業が「ブリコラージュ」。その典型が既製品によるオブジェだろう。数十のハンガーを組み合わせたマン・レイの「障碍物」=同下=や、小箱にさまざまなモノを配置したジョセフ・コーネルの一連の作品などがある。印刷物などを貼り込むコラージュや、絵の具が乾かないうちに別の耗を押し当てて転写するデカルコマニーも、イメージの偶然の出合いで「新たな現実」をたぐり寄せる試みだった。
 こうした運動の背景にあったのは第1次大戦(1418年)後の欧州社会の状況、という指摘は重要だろう。空前の破壊と殺戮を経験しながらも、既存の価値や制度による「復旧」が急がれたのだ。震災と原発事故の後の日本社会で、シュールレアリストたちの精神に学ぶべきことは少なくない。 (西岡一正)
 ▽825日まで、東京・西新宿の揖保ジャパン東郷育児美術館。月曜休館。

「トンドの夢想家達」展


美術学科主任 建石修志が出品しています。
2013年8月3・9・10・16・17・23・24・30日開廊
中央区京橋1-6-10 春本ビルB1F 
ギャラリー オル・テール
http://or-terre.jimdo.com/

2013年7月10日水曜日

人から物へ視点の革命(709asahi)

シャルダン×写真家・作家藤原新也


 僕は反動的な仕事をしているというイメージをもたれているが、実は、静物画の魔術
師といわれるフランスのシャルダン(16991779)に影響を受けている。
 静物画というと、おとなしく小市民的な感じがするが、当時の西洋において、絵画から人を消すということは革命的なことだった。それまでの西洋絵画のモチーフというものは神話や宗教画、王侯貴族の肖像画といった人間中心世界で、静物や風景や動物はただの背景に過ぎなかった。
 そんな人間中心の西洋絵画史において、シャルダンが片隅にあるただの静物を主役にしたということは大変なことだった。純粋に美しいと思うものを措いたからだろう。誰かのための絵というしがらみを抜け出し、日常生活で使うモノを主役にするという、革命的なことをサラっとやってのけた。19世紀には印象派は自然を主役にしたが、その視点の転換はすでにシャルダンが先陣を切っていた。
 見上げるような威張った絵ではないことも魅力だ。小さいけれど頑強で擦るぎない。虚飾がなく、そこには確固とした存在がある。ひょっとすると、その擦るぎないささやかな日常が彼にとっての宗教だったのかも知れない。
 出あいは高2の時。親の旅館が破産して、親しい人がハゲタカに変わるのを見た。北
九州の門司から大分の別府に引っ越し、大人への不信感と新しい土地の言葉になじめな
い孤独感を抱えていた。
 そんな時、美術の教科書に載っている絵の静けさに引きつけられた。赤銅色の給水器
が斜光を受けていて、油絵の具で描かれた物が、銅そのものに見えた。措きたいと思っ
た。倉庫からさびた消火器を引っ張り出した。当時の画法を調べ、絵の具を自分で練っ
て作ったりもした。
 シャルダンから受けた影響は、絵そのもの以上に大勢にとらわれない独白の視線だっ
たと思う。僕の写真は視覚の外にある死角、つまり人が普段は見ていないものを主役に
する場合が多い。以前、セイタカアワダチソウの写真を雑誌に載せたら、誰もが悪者と
思う帰化植物も美しかったんだ、と言う読者がいた。すべてをご破算にして世界を見る
と価値の序列が変わり、普段は見えなかったものが見えて来るということでしょう。
 世の中に流通する価値観を壊し、中心ではなく端に目を向けることは、ある意味反社
会的な行為かも知れない。上京後に東京芸術大に入学したが、絵の世界のヒエラルキー
を感じてやめた。シャルダンが今に生きていたらきっと芸大を中退していると思う。

(聞き手・吉村千彰)

分からないって豊かだ(629asahi)

 説明板に記された作者や題名を見ながら、美術作品を味わう。こんな楽しみ方が、水戸市の茨城県近代美術館で開催中の展覧会では難しくなっている。説明が隠されているのだ。じやあ、何も分からないじゃないかー。そう、それが狙い。題して「『ワカラナイ』ノススメ」展だ。
題名・解説隠され東フル回転

茨城県近代美術館
 「近年、『分かりやすい展覧会を開いてほしい』とよく言われる。分かりやすいとは、知っている作品が並ぶことだったり、詳しい情報だったり。でも美術館に来たら、自分とは違う『何か』と出あっていただきたい」
 市川政憲館長は、こう語る。日本の美術界、・いや、文化全体を琴つ「分かりやすい症候群」への異議と言ってもいい。そのために説明坂にふたをして、まず未知の作品と向き合ってもらうことにした。その後にふたを持ち上げれば、作者名などが分かる仕掛けだ。
 出展の約50点は同館所蔵品で、大正期から現代まで、抽象画や彫刻がかなりを占める。柳原義達や白髪一雄ら美術史に欠かせない作家の作品がある一方、郷土で活動した作家の作品も多い。作者や題名が不明なだけでなく、時代や傾向による章立ても解説もせずに並べてある。
 この展示は、美術に親しみ、展覧会を見るコツを知っている人の方が辛いだろう。作者や制作年はもちろん、美術史的な流れといった「文脈」には頼れない。「どちらもいいなあ」と思った作品の片方が有名作家で、他方があまり知られていない作家ならば、「有名って何か」と考えざるを得ない。自分の目と頭をフル回転しなければならない。
 担当する荒木扶佐子学芸員は「知らない作品や抽象画の場合、前を通り過ぎてしまう人が多い。でも、分からないことの豊かさを知ってほしかった」と話す。
 土曜と休館の月曜を除く連日午後1時からの「たちどまって見よう」という試みも、そのためといえる。毎日異なる作品を12点取りあげ、その前で来場者らが、作者や題名を知らないまま語り合う。
 例えば、小ぶりで暗い画面に白いものがうごめく油絵を対象にした日。十数人の参加者から「暗くて分かりにくい」「3人の農夫がいる」 「人が倒れているのでは」といった意見が出てきた。
 市川館長や荒木学芸員も加わり、「暗さ」についての議論も。「輪郭がばやける」 「あいまいに見せようとしているのでは」といった声があり、「位置を変えると見え方が変わる」というた発言の辺りで、熊谷守一が1931年に樅殉体を描いた「夜」という作品だと明かされた=写真右下。
 小動物や花を素朴に措いた熊谷の代表的な作風を知る人からは「もっと分かりやすい絵を措く人なのに」と驚きの声が。先入観を洗い流して「分からなさ」と、そして表現そのものと向き合うこの試みの一つの成果だろう。
 難解だといわれがちな抽象作品や現代美術を解きほぐそうする展覧会は少なくない。しかしここまで「分からない」ことに徹底した企画は、ほとんど例がないだろう。表現の本質に迫る画期的な試みといえる。   (編集委員・大西若人)


2013年6月26日水曜日

「顔」で作る街の風景(619asahi)

JR展  世界はアートで変わっていく

 見慣れた街や建物の姿をがらりと変えてしまう。東京駅舎などにCG画像を映すプロジェクションマッピングが最近の話題だが、現代美術の世界でも以前から、著名な建造物を梱包するクリストや原爆ドームなどに批評的な映像を投影するK・ウデイチコらが知られてきた。フランスの美術家JR30)もこの系譜といえる。でも、日本初の個展からは、ずっと今日的な振る舞いが見えてくる。
 当初は、暴動が起きたパリ郊外の若者たちの顔写真を引き伸ばして高級住宅街の壁に貼るなど、どんな顔をどこに貼るかという政治性が表に出ていた。
 表現としての強度を高めたのが、200810年に世界各地で手がけた「女性たちはヒーロー」のプロジェクトだろう。戦争や犯罪、政治的衝突にさらされる女性たちの、やはり大きな白黒写真を貼ってゆくのだが、その場所と貼り方が心憎い。
 ブラジルでは衝の大階段に巨大な顔を貼り、ケニアのスラム街では鉄道が走る土手に巨大な鼻と口の写真を貼っておいた。列車の車両には大きな両目が貼ってあるので、土手を進むにつれて目と鼻口の組み合わせが変わってゆく=写真上。このスケール、ユーモア、何より風景を一気に変える着想に舌を巻く。
 11年に始まった「インサイドアウト計画」も構えが大きい。世界中の誰でも、自分の写真を専用サイトに送ればJRからポスター大になって送り返されてくるし、彼が運ぶ撮影機で自分を撮れば、やはり大きな写真が手に入る。それを街角や路上に貼ればいいわけだ。すでに十数万人が参加したという。
 東北の被災地にも撮影機を持ち込み、約400人の写真が現地の家や壊れた建物の壁、打ち上げられた船に貼られ、一部は東京の個展開催館の外壁や展示室も埋めている=同下。館内にも撮影機があり、来場者もプロジェクトに参加できるのだ。
 人の顔という古代以来のモチーフを使いつつ、街の風景を柔軟に変え、ネットを通じて世界中の人々を誘い込んでゆく。しかも自由度を保つために資金的な支援を受けず、白身の写真作品の販売などでまかなっている点は先達のクリストと同じだ。
 スケールが大きいのにカジュアルで、でも意外に正統派の作家なのだ。
(編集委員・大西若人)
 ▽30日まで、東京・神宮前のワタリウム美術館。月曜休館。

会田誠、蟻川実花らの現代アート展(619asahi)

岡山県倉敷市・大原美術館

 岡山県倉敷市の大原美術館で、21世紀になって同館が収蔵した現代アートを紹介する「オオハラコンテンポラリー」廣が77日まで開かれている。気鋭の作家48組が手がけた
絵画や映像、写真、立体造形などの86点が並んでいる=写真。
 会田誠の「愛ちゃん盆栽」は松の枝先に少女の首が実る奇怪なオブジェで、蜷川実花の色鮮やかなバラの写真作品もある。ほかに押江千衣子、小谷元彦、小林孝亘、福田美蘭、ヤノベケンジ、山口晃ら。
 同館は2000年代に入ってから、若手の育成支援に力を注いでいる。毎年公募した若手に最長3カ月の滞在費とアトリエを提供して作品を発表してもらっているほか、大原家旧別
邸の有隣荘で現代作家の展覧会も開催。平面作家の登竜門「VOCA展」にも大原美術館賞を出している。
 今展はこうした取り組みを通じて収蔵してきた作品が中心。高階秀爾館長は「80年余りの歴史を持つ大原美術館は、時代とともに成長し続ける。若い美術家を支援するのは私た

ちの使命」と話している。

2013年6月25日火曜日

制作風景動画「フェルメールの少女(仮題)」Vol.2

どうもこんにちは美術学科の菅原です。
制作風景動画のVol.2です。
よろしければ是非お付き合い下さい。

2013年6月14日金曜日

「浮世絵浪漫展」

美術学科主任の建石修志は2点出品致します。

2013年6月1日土曜日

美術批評が謎めく理由(529asahi)

モナ・リザの正体 西岡文彦

 ルーブル美術館で「モナ・リザ」の前に立つ人々の大半は、少なからぬ失望を味わうことになる。これほど謎めいた言葉で語られながら、実際に見た印象が、ここまでおだやかな絵は、他に例がないからである。
 じつは、この絵にまつわる謎めいたイメージの多くは、近代美術批評の原点とされる一編の論文に端を発している。英国の耽美主義を代表する作家ウォルター・ペイタ一による「モナ・リザ」評がそれで、絵のモデルを吸血鬼にも似た死の秘密を知る女性に見立てたこの文章が、英語美文の最高峰とされたことから、この絵を語る際にはなにやら謎めいた言葉を並べぬことには済まないような奇妙な風習が確立してしまったのだ。
 ところが、このペイターは、後代のベルギー周辺で描かれたと思われる作者不詳の、神話の怪物メデューサの奇怪な生首の絵=写真=をダピンチ作と誤解して絶賛。この種の怪奇絵画の巨匠の作として「モナ・リザ」を論じた結果、お門違いの吸血鬼詰まで持ち出してしまっている。おかげで、従来は絵画の理想を示す傑作とされていた「モナ・リザ」に、不気味な印象がつきまとうことになったのだ。
 この絵の謎めいたイメージの過半は、ペイターの誤解に基づいた近代批評の産物であったわけで、今なお美術批評が常人の理解を超えたむずかしげな言葉を好むのも、こうしたペイタ一流の伝統といえそうだ。(多摩美術大学教授)

TIS「今昔物語」167人のイラストレーター 墨汁に挑む


TIS「今昔物語」167人のイラストレーター 墨汁に挑む
美術学科主任の建石修志、2点を出品してます。
2013年6/5(水)~11日(火)
銀座松屋7階 遊びのギャラリー 和の座ステージ
東京イラストレーターズ・ソサエティ主催
開明株式会社協賛
額絵と扇面作品をそれぞれ出品

三島と作った劇的構図(522asahi)

細江英公「薔薇刑#29
 「薔薇刑」は作家の三島由紀夫さんを被写体とした写真集です。出版社から突然、三島さんの評論集のために、著者の希望で写真を撮ってほしい、という依頼がありました。そ
れ以前から僕は舞踏家土方巽さんを撮影しており、三島さんは土方さんの公演パンフレットに文章を寄せていたので、僕の写真を見ていたようです。
 評論集の写真が気に入ってもらえたので、今度は僕の方から撮影を依頼したら、「明日でもいいよ」と二つ返事。当時すでに売れっ子でしたが、他の仕事より優先してくださ
り、約半年間撮影を続けました。
 最初に撮ったときから「好きにしていい」といわれました。僕もずうずうしいので、ホースで三島さんをぐるぐる巻きにしたり、工場の廃屋に入り込んだり。そうするうちに被
写体がのってきて、写真家との一体感が生まれてきました。
 三島さんがルネサンス絵画の画集を「これ、いいでしょう」といいながら見せてくれたことがあります。そのイメージを写真に生かせないか、という思いがあったのでしょう。その画集を借りて、背景画専門の画家に描いてもらった複製画や、複写した写真を撮影に持ち込みました。この作品はその一つ。三島邸で、大切にされていた置き時計とテーブルの下に三島さんに潜り込んでもらい、ルネサンス絵画をスライドで投影しています。
 三島さんの鍛えられた体は、肉体に関心を持っていた僕にとって完成された被写体でした。一方、三島さんはギリシャに理想を見いだし、そこからルネサンスにも関心を持って
いた。ルネサンス絵画の中に入った「薔薇刑」の写真は、その意味で三島さん自身が見たかった劇的なイメージを、僕とともに作り上げたといえるのかもしれません。
       (聞き手・西岡一正)
 ほそえ・えいこう 1933年、山形県生まれ。東京写真短大(現・東京工芸大)卒業後、フリー写真家として活動。代表作に舞踏家・土方巽を被写体とした「鎌鼬(かまいたち)」、肉体の抽象的な造形に迫った「抱擁」など。早くから欧米の写真界と交流し、国際的に活動する。文化功労者。

詩的な「もう一つの世界」(522asahi)

「空想の建築   ピラネージから野又穫へ」展


 「空想の建築」なる言葉にはどこか詩的な響きがある。空想の衣服や料理では、こうはいかない。建築の堅牢なイメージと空想という重力を脱した用語の距離が速いためか。さらに家、学校、病院と人生の多くが建物で送られることを思えば、建築は「世界」の別称ともいえ、空想の建築は「もう一つの世界」や「異郷」の類いとなる。
 展示前半は、その系譜を主に1520世紀の版画でたどるが、見た目ではほとんど制作年代が類推できない。多くが古代遺跡など過去の建築を参照しているからだろう。無の状態から空想囲や未来像を措いても絵空事になるためか、過去を現在で折り返して夢想しているのだ。
 なかでは、18世紀イタリアのジョバンニ・バッティスタ・ピラネージ。「古代ローマのアッピア街道とアルデアティーナ街道の交差点」=写真上=は、古代の廃虚をいくつも夢想し、連ね重ねている。さながら「空想建築博物館」の趣だ。
 展示はここに、エッシャー的空間を小箱内に作るコイズミアヤら日本の現役作家を加える。特に野又穫の絵画を35点集め、展示後半はまるで個展。彼が描く朝日新聞の「ザ・コラム」欄の挿絵原画展まで同時開催されている(画集は青幻舎から)。
 石造から、帆船や温室のような建物まで、四半世紀を超える野又の空想の建築も、遺跡や廃虚のイメージに連なるが、実に詩情豊か。精妙な筆致とさめた色調が、建築がたたずむ場の空気も描き出し、ゆったりと空に溶ける雲が画面に風を吹かせる。人の要はなく、日常を超えた形而上学的な時が流れる。
 現実の建築が破壊し尽くされた東日本大震災の後、絵に集中できなかったという野又はその後、抽象化させた建築なども描き、今回、ピラネージを意識した最新作3点を見せている。
 例えば「波の花(未完)」=同下=は意外にも、東京・渋谷の夜景という具体的な場所、時間を思わせる。光り輝く街はかりそめの繁栄への批評なのか。一方で、携帯電話でのつぶやきを思わせる無数の光の粒が歩道などにあふれ、小さな「生」のいとおしさも浮上する。
 過去の建築からではなく、まずはこの現在の姿から描き出したい。そんな思いが浮かび上がる。  (編集委員・大西若人)
 ▽616日まで、東京都町田市原町田の市立国際版画美術館。月曜休館。図録はエクスナレッジから。

2013年5月30日木曜日

画材紹介その3「素手-Bare hand-」Painting item review No.3

こんにちは。美術学科の菅原です。
画材紹介動画シリーズ。
第三弾は「素手」です。

2013年5月29日水曜日

制作風景動画「フェルメールの少女(仮題)」Vol.1

どうもこんにちは美術学科の菅原です。
今回の動画は一枚の絵が真っ新な状態から完成するまでをドキュメンタリー風に追跡していくという試みのものです。そのため制作風景の一部始終をほぼそのまま流してしておりますのでやや冗長な内容となっておりますがよろしければ是非お付き合い下さい。

2013年5月16日木曜日

鉛筆派展ⅩⅢ

日デ美術学科の講師5人も参加している鉛筆派展。
今年で13回目の展示。
敢えて鉛筆だけで作品を作る48人による総出品点数120点余の展示です。
色彩を使わず、光と影のみによる鉛筆空間。
ぜひご高覧の程を…。