2010年10月29日金曜日

「不気味の谷」に漂う心(1028asahi)

ロボット演劇2作初演



 名古屋市で開催中の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」で、劇作家平田オリザさんとロボット研究者の石黒倍大阪大学大学院教授による、対照的な二つの「ロボット演劇」が初演された。「さようなら」と「森の奥」だ。
 「さようなら」はアンドロイドが病気の女性の気分に沿った詩を暗唱する、約15分の小品。登場した「ジェミノイドF」は滑らかなシリコーン製の肌を持ち、埋め込まれた12の駆動装置が人間そっくりの表情やしぐさを作り出す。
 別室にいる生身の女優の顔や首の動きを取り込み、リアルタイムで表情を変化させる。内蔵スピーカーから流れるのは女優の声。少し眉をひそめた顔や静かに響く声は、自分の意思を持って演技しているように見えた。
 だが終幕後、自動的にまばたきを繰り返す「ジェミノイドF」は不気味なだけ。そこには「心」を感じられなくなった。一方、「森の奥」に登場した「Wakamaru」は、対照的に、いかにも機械的な見かけ。事前に入力した動きやせりふを遠隔操作で調整し「演技」する。音声は人工音で、最初は家電製品が動いているような印象だった。
 しかしカーテンコールでは、誤作動で止まった彼らに客席から微苦笑がもれ、拍手も起きた。精妙な間やタイミングから「心」を読み取るうち、観客は「Wakamaru」自体に人格を感じるようになったのだろう。
 「不気味の谷」という言葉がある。ロボットを人間に似せていくと、人間と見分けがつかなくなる手前でいったん強い嫌悪感を生じさせる現象のことだ。動いてぃる「ジェミノイドF」は谷を挟んで人間側、終幕時は谷底、「Wakamaru」は谷の反対側にいたのかもしれない。
 石黒教授は著書『ロボットとは何か』で「人は互いに心を持っていると居じているだけ」と記している。見かけ上のわずかの差で「人間らしさ」を感じなくなる。一方で外見は機械でも、動作や言葉の積み重ねから「人間らしさ」を感じてしまう。ロボット演劇があらわにしたのは、そんな人間の心のあやふやさだったのではないか。
 「さようなら」は11月10・11日、舞台芸術祭「フェスティバル/トーキョ1」のプログラムとして、垂尻・東池袋のあうるすばっとでも上演される。   (増田愛子)

いま再び写実(1027asahi)

主義から思想へ若手が台頭


 

写実的な絵画が精気を取り戻している。11月3日には写実専門の私立美術館「ホキ美術館」が千葉市に開館し、神奈川県の平塚市美術館では現在、写実を追求した磯江毅の回顧展が開催中だ。ほかにも1960~70年代生まれの世代に、写実に取り組む作家が目立つ。デジカメ写真をパソコン上で簡単に加工・修整できる時代に、なぜ写実絵画なのか。(西田健作)
 ホキ美術館は、現代の写実絵画だけに的を絞った珍しい美術館だ。医僚用品メーカー・ホギメディカルの創業者保木将天さん(78)が館長を務め、自身の約300点のコレクションから常時約160点を展示する。

  展覧会は完売

 保木さんは「この10年で写実が脚光を浴びていると感じる。百貨店で写実の展覧会があれば完売になり、年に1度、コレクションを公開すると1日千人もの人が来るようになった」と話す。
 コレクションの中心は、森本草介、野田弘志、中山忠彦の作品。3人とも1930年代に生まれ、一貫して写実に取り組んできた。森本は理想化した女性像を措き、野田はリアリズムを徹底して追求、日展の理事長でもある中山はアンティーグな衣装をまとった妻を繰り返し描いてきた。
 3人は着実に支持されてきたが、抽象的な絵が主流の80年代まで、大きなうねりになることはなかった。だが、写実に詳しい奈良県立美術館の南城守学芸員は「80年代末から90年代にかけて、公募団体展で活動する若い世代が群れをなして写実に取り組むようになった」と話す。
 特に91年の企画展を通じ、スペインの画家アントニオ。ロペス・ガルシアらの「マドリード・リアリズム」が紹介されたことが大きいという。
「日本では、写実の画家は発想力が無いという目で見られてきた。だが、ロペスらの絵を知ることで、写実に深い思想性を込め、ほかの現代美術の作品に負けないものを措けることが分かった」とみる。
 東京・日本橋にある春風洞画廊の横井彬社長は「芸術性に加えて、マーケットもある」と話す。「大きな美術運動が無くなるなか、中山、森本、野田の成功を見て、若い画家たちが後に続いた」
 描く側はどう考えているのか。若手の代表格・諏訪致さん(43)は「主義で美術を語る時代は終わっている。だから、写実主義の復権ではなく、あるべき絵の方向性を作家ごとに探しているだけ。でも、人の形を描いたら美術じゃないという状況が無くなったことだけは確か」と話す。
 平塚市美術館で個展が開かれている磯江は、マドリード・リアリズムの画家だった。54年生まれで、スペインを拠点に制作、07年に病死した。公立美術館では初個展。静物画を中心に約60点を並べた。担当した小池光理学芸員によると、長時間、絵を見る人の姿が日立つという。小池学芸員は「個性ばかりを主張するのではなく、ストイックに措いていることが分かる絵だからこそ、多くの人に受け入れられるのでは」とみる。
  
作家比べる場

 もっとも、現代の写実絵画が定普するかどうかばこれからだ。ホキ美術蛇の展示には、森本の後を追うような美しい女性を描いた甘美な絵が目立つ。南城学芸員は「美しい女性を措くのなら、なぜ描くのかという問いかけが無いと、単なる売り絵になってしまう」と心配するじ新たな拠点は、作家を比較する場にもなる。写実絵画も選別の時代に入ろうとしている。
 ▽ホキ美術館は千葉市緑区あすみが丘東3の15にある。電話043・2C5・1500、祝日以外の火腿日など休み。平塚市美の「機江毅展」は11月7日まで、月曜休み。

2010年10月23日土曜日

ベルサイユ宮での村上隆展中止を=ルイ14世の子孫が仮処分申請へ(時事通信)

 【パリ時事】パリ郊外のベルサイユ宮殿で開催されている現代美術家、村上隆氏の作品展について、同宮殿を建設したフランス王ルイ14世の子孫らが22日、宮殿管理者に中止を求める仮処分をベルサイユの行政裁判所に申請することを明らかにした。「祖先と宮殿の尊厳を守るため」という。AFP通信が報じた。
 マンガやアニメを下敷きにした作品で知られる村上氏の作品展に対しては、保守系の団体が「宮殿への冒涜(ぼうとく)だ」などと反対運動を展開していた。仮処分を申請するシクストアンリ・ドブルボン公は「ベルサイユ宮で展示会を開けば美術家の価値は上がるだろうが、フランス文化のためにはならない」と主張している。 

2010年10月9日土曜日

惜別──最後の一首「息が足りない」(109asahi)

歌人 河野裕子さん

 すさまじいまでの暑さの夏、歌をのこして逝った。
 抗がん剤の投与をあきらめ、退院して京都市内の自宅に帰ったのが7月。食べられず、33キロまでやせた。モルヒネでもうろうとするなか、目をつぶったまま、ふいにつぶやきだす。五、七、五、七、七。指折って。何首も、何首も。
 夫の歌人、永田和宏さん(63)ら家族が耳をすまし書き取った。
 8月11日、朝から苦しい、苦しい、ともがいた。和宏さんが手を握ると少し眠った。目覚め、かすれ声でつむいだ。
 (手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が)。
最後の一首になった。
 京都女子大在学中に角川短歌賞を受け、デビュー。学生の寝歌同人誌の集まりで出会った和宏さんと25歳で結婚した。身ごもる女のからだを、天や子どもとの暮らしをのびやかに歌い、現代女性歌人の先頭を歩いた。
(ブラウスの中まで明るき初夏の日にけぷれるごときわが乳房あり)。
受賞歴は枚挙にいとまがない。
 「母はあけっぴろげで直感の人と思われるけれど、よく本を読み努力していた」と話す長男辞さん(37)も長女紅さん(35)も歌人になった。
 2000年に乳がんを患い、手術。再発の不安を抱えて創作を続け8年。おととし、転移が見つかった。化学寮法をしながら、昨年末出した第14歌集「葦舟」は死を見すえていた。
 (一日に何度も笑ふ笑ひ声と笑ひ顔を君に残すため) 
(そこにとどまれ全身が癌ではないのだ夏陽背にせし影起きあがる)
 「葦舟」のあとがきに、歌がなければ、たぶん私は病気に負けてしまっていただろう、と記していた。亡き後、ティッシュの空き箱にまで歌の断片が見つかった。愛用の三菱の2Bだろう鉛筆書きが、執念のごとく。
 歌うことが生きることだった。
       (河合真美江)

かわの・ゆうこ 8月12日死去(乳がん)64歳 10月17日しのぶ会

ノーベル平和賞劉氏受賞の意味(109asahi)

平和的中国へ不可欠な存在

 
             
 中国の詩人劉暁波がノーベル平和賞を受賞した。だがその発表のとき、彼は受賞の報を聞くこともできずに獄舎にいた。彼は強制的に妻からも、友人たちからも、街の人びとからも距てられ、11年の刑に服して獄舎にいる。平和賞はこの獄舎の詩人に贈られたのである。彼にどのような祝いの言葉をのべたらよいのか。しかしなぜ彼に平和賞なのか。その意味をこそ私たち
は考えねばならない。
 劉暁波は1989年6月4日未明に天安門広場で起きた事件の犠牲者たちの記憶を魂に刻んだ詩人である。
「『六四』、一つの墳墓/永遠に永眠できない墳墓」
「忘却と恐怖の下に/この日は埋葬された/記憶と勇気の中で/この日は永遠に生き続ける」

 「6・4」記憶の詩

 彼は6月のその日、民主化を要求する学生たちを軍事的に制圧しようとする当局に抗議するハンストの中にいた。
 迫る惨劇を避けるために、彼は撤退することを学生たちに訴えた。最悪の事態を避けて学生たちは撤退した。だがそれを待ちきれずに戒厳部隊は行動を開始した。この制圧行動によって広場で何があったのか、何人殺されたかは分からない。当局は広場における死者は一人もいないといい、この事件を通じての死者は319人だと発表した。
 だが6月のあの学生たちの運動とその軍事的制圧を見聞した市民で、当局のこの発表を信じるものはいない。犠牲者は数千にのばるともいわれる事件の真相は隠され、事件そのものさえ中国現代史の公的記述から消されていった。すでに中国ではこの事件を知らない青年たちが育っている。
 劉暁波は、「6・4」事件で生き残った者の呵責が、針として体内にある痛みに耐えながら文章を記した。それはあの犠牲者の母たちの運動に連帯する文章であった。
 母たちの運動とは虐殺された息子たちの事実を根気強く明らかにし、謝罪と弁償と法の裁きとを要求するものである。彼はこの運動に中国の希望を見いだした。「六四問題をいかに解決するかは、中国が平和裡に民主国家に転換できるかどうか、という巨大な公共の利益に直接関係している」と。
 6月4日の事件の最終的な解決は、中国が平和裡に民主的国家へ転換することにかかっているというのである。だから「6・4」事件の死者の記憶を言葉にする詩人劉暁波は、民主的中国のためのマニフェスト「08」憲章の提唱者でなければならないのだ。
 「6・4」事件を歴史から抹消する中国当局は、この事件を堅く記憶にとどめ、その最終的な解決を民主的国家中国の成立に求める劉暁波を許さない。
「08」憲章の発表の前日、2008年12月8日に彼は当局に拘束され、懲役11年の刑で刑務所に収監されている。その彼にノーベル平和賞が贈られたのである。

 即時釈放求めよう

 劉暁波の発言と活動は、中国における政府と民衆との、民族と民族との真の和解のための、すなわち民主的で平和的中国のために必要不可欠なものだし授賞はそうした評価に基づくものだと考えたい。
 平和的中国とは東アジアの平和のための最大の基盤であるだろう。中国の平和も、そして東アジアのわれわれの平和も、劉暁波を獄中に置くことにはないことをこの受賞とともに知るべきである。劉暁波の即時釈放をはっきりと求めること、それこそが日本から彼に贈る祝いの言葉である。

子安宣邦 大阪大名誉教授(日本思想史)
1933年生まれ。著召に『「アジア」はどう語られてきたか』 『日本ナショナリズムの解読』など。劉暁波民らの08韻サ章を支持しており、劉氏の著召『天安門事件から「08貸費」へ』には序文を寄せている。

2010年10月8日金曜日

寺山修司の作品 公演相次ぐ

寺山修司作「阿呆船」の公演ポスターに、学科主任建石修志がイラストレーションを提供しています。



又某ASAHI新聞(108asahi)にも次のような記事が掲載されていました。
時間のある方は是非ご高覧の程を。


寺山作品独自に迫る
 寺山修司作品に新しいアプローチをする公演が東京都内で相次ぐ。
 13~20日には吉祥寺シアター(武蔵野市)で、実験演劇ユニット、プロジェクト・ニクス(電話03・6312・7031)が「星の王子さま」(1968年初演)を金守珍演出で上演する。宇野亜喜良が構成・美術を担当し、寺山戯曲にサンテグジュペリの「星の王子さま」の場面を加えた。音楽も多用し、女性だけの世界を描く。水嶋カンナ、遠藤好、蘭妖子、石井くに子、カルメン・マキ、中山ラビらが出演。黒色すみれの演奏も。5000円、学生3500円。
 演劇実験室・万有引力は、76年に初演された実験的幻想音楽劇「阿呆船」を、16、17の両日、多摩市のパルテノン多摩(電話042・375・1414)で公演する。他の上に特設ステージを組んでの野外劇(雨天決行)。J・A・シィザーの演出・音楽・美術。公募で集まった市民40人もスタッフ、キャストとして参加する。当日6000円。
 同施設2階の市民ギャラリーでは、69年に寺山が主宰した演劇実験室・天井桟敷に参加し、寺山とともに活動してきたシィザー監修による「わたしの演劇ノート展」も開催中だ(17日まで。13、14日休館)。寺山が書いたメモや台本、写真パネル、ポスター、楽譜、パンフレットなどを多数展示。83年に死去した寺山の葬儀で掲げられた背景画など貴重な資料も出品されている。展覧会は入場無料。

人間透かす等身大イエス(108asahi)

ドイツの村10年に⊥度の受難劇



 ドイツ南部、オーストリアとの国境に近いオーバーアマガウという村は、十年ごとに村の人々による「キリスト受難劇」を上演することで知られる。1634年以来、ペストによる絶滅から免れたことへの感謝として続いている。今年は5月15日から10月3日まで、計102回上演された。在外研究で滞在中の本年が上演年にあたり、ベルリンより足を運んだ。
 民衆劇といえば、日本の農村歌舞伎のような素朴なものを想像して出かけたが、舞台こそ屋外にあるものの、観客席は4720人収容で、しかも満員である。世界中から観客が訪れ、「村芝居」のイメージとはほど遠かった。
 芝居は迫力に満ちていた。キリストのエルサレム入城から、十字架上の受難、復活までを措き、人間が演じるという意味でも、イエスの人物像を表現する意味でも、文字通り等身大のイエスであった。十字架にかけられて全身から血を流すイエスの姿は、教会で目にするが、生身の人間によって再現されると、いかに残酷であるかがよくわかる。
 ロバに乗ってエルサレムに入城するキリストの姿には、既存の価値観への挑戦者としての誇りとともに、後の受難を予告するかのような哀愁が漂っていた。宗教劇が民衆の宗教理解にどれほど重要な役割を担うものであるかが実感できた。
 村の青年が演じるイエスは、新しい神の教えを説こうとする純粋さや熱意を存分に伝え、さらに、神の子という特殊な使命を負い、弟子たちにも距離を置かれ、孤独に死んでいかねばならぬ運命を目前にした恐れと苦悩を、まさに一人の人間(でありながら神の子)として説得力のある形で見せてくれた。キリストはあたかもカリスマのようであるが、実は悩みに満ちた平凡な一人の人間であったという遠藤周作文学のなかのキリスト像が納得される。間に休憩をはさんで前後3時間ずつの長丁場だったが、時間はあっという間に過ぎていった。
 日本の近代化には、キリスト教に影響を受けた知識人が大きな役割を果たしており、私がつとめる大学もキリスト教主義の大学である。特に明治以降の女子教育の発達にキリスト教が果たした役割は大きく、ミッションスクールといえば「お嬢さん学校」というイメージも定着している。
 しかし、私自身もすごしたミッション系女子校の優しく上品な雰囲気と、聖書が伝えるかくも強烈な人間の愚かさと暴力は、何と対照的であることか。キリスト教式結婚やクリスマスのような、日本におけるキリスト教の甘くやわらかいイメージは、聖書の内容をオブラートでくるんだよう。日本のキリスト教が誤りというわけではなく、本家の西洋でもキリスト教の解釈は多様であり、受難劇が伝えるキリスト像は一例にすぎない。また、かつての民衆劇は喜劇的要素が強く、教会からは涜神行為とみなされて頻繁に禁止令が出されたという(下田渾『ドイツの民衆文化』)。
 だが、愛と慈しみの教えは同時に、恐ろしい人間の性をも見せつけ、それが世界の民衆の心をひきっける力となり続けているのであろう。(佐伯順子・同志社大教授)

2010年10月5日火曜日

葉山實展

講師の葉山實の個展のお知らせ

「風が吹いていると想像してごらん」 ─ 抽象絵画・ドローイング ─



2010/10月16日(土)~24日(日)
11:00~17:00
Gallery 招山
鎌倉市鎌倉山2-22-23
0467-32-1712

「ぼくは、描かなけりゃならないんだ」(104asahi)

─コトバの記憶─
「ぼくは、描かなけりゃならないんだ」 モーム『月と六ペンス』

 人生半ばにして芸術に魅入られ、妻子も地位も捨てて誰にも理解されない絵を描き続け、タヒチで病死するイギリス人画家チャールズ・ストリクランドを描いた小説。ゴーギャンの生弓陸に憩を得たと、モーム白身が序文で明かしている。
 引用文はパリに出奔したストリクランドが、語り手である青年作家に、技術や才能がなくては成功は難しいと諭されて、いらだたしげに繰り返す言葉。「人が水の申へ落ちたら、どういう泳ぎ方をしようと、うまかろうが、まずかろうが、そんなことは問題でない」とも言う。
 ストリクランドの身勝手さに最初は憤慨した語り手だが、金も名営も求めない禁欲的な資勢に打たれる。絵についても、毒々しい色彩や一見不器用なタッチに驚きながら「ある魂の状態を表現しようと、驚異的な努力をしている」とみてとる。阿部知二訳、岩波文庫。(安部美香子)

「まねぶ」から美術家へ(102asahi)

森村泰昌さん、習作を書籍化



 美術家の森村泰昌さんは今年、趣向の異なる二つの個展を開いた。一つは、20世紀の著名人に扮した「なにものかへのレクイエム」。世界に知られるセルフポートレートシリーズの回顧展だ。もう一つは、自身の無名時代の習作を、影響を受けた美術作品と並べて展示した「まねぶ美術史」。森村さんは展示内容を書籍化することにこだわった。そのわけは。(浜田奈美)

「デッサンを見てほしい。(略)高校1年D組だった私が描いたはじめての石膏デッサンだ。もののみごとにへたくそだと思わないか」
 これは『まねぶ美術史』(赤々舎)=写暮=の冒頭に森村さんが著した言葉だ。文の横には石膏像のデッサン。1967年、少年時代の作品である。 ページをめくると、青ペンによる抽象画がワシリー・カンディンスキーの作品「小さな世界IX」(1922年)と並んで掲載され、さらに鉛筆で描かれた抽象画がパウル・クレーの作品「綱渡り」(23年)と並んで掲載されている。
 これらは今夏、高松市美術館で開催され、来年以降に広島県福山市や岩手県などに巡回する同名の個展の内容そのままだ。森村さんの過去の習作や未公開作品と美術館のコレクション計約120点を展示した。ちなみに「まねぶ」は「まねる」 「まなぶ」の語源となった言葉である。
 「肖像(ファン・ゴッホ)」(85年)を発表し、擬態する美術家モリムラとして飛躍する以前の個人史の数々。「お茶屋の息子の僕には芸術的な環境が何もなかった。例えば本を開いたときとかにぼつんと情報が入ってきて、そのたびにFこんなもんがあるのか』と驚いて自分のオリジナリティーを追求した」
 数千点におよぶ習作のほとんどを、森村さんは自宅に保管していた。それらを「気になってちらちらと眺めていた」ところから、「まねぷ美術史」を思い付いた。「当時の表現との出会いとか衝撃は、非常に純粋なものでした。最近、あの衝撃がとても大事に思えてきたんです。試行錯誤しながら一巡して、原点に戻った感覚ですね」
 芸術のプロジェクト化が進み、大がかりになったことも気がかりだった。「僕の『レクイエム』も結構な規模。ただその一方で、表現は本来的には個人的なものなんやけど、といういもあって」 書籍化はそんな思いの結晶でもある。だから40余年前のデッサンを表紙に載せた。「間違いなく美大落ちるでという、へたくそな絵です。僕はそんな出発をしたわけで、そこから出発できるということでもある」