2012年3月24日土曜日

アッキオ・タナカの世界











アッキオ・タナカの世界
ボールペンアート r記憶の起源J
2012.3.18sun−3.29thu 29のみ17:00close
無価値で無意味、でも不毛ではない!
私は私の「ボールペン・アート」を制作しながら、なんどそのようなことを呟きながら、ボールペンによるドローイングを始めていたことか。このような芸術観は若き日に強い影響をうけたJ・ケージやM・デュシャンのものであったかもしれない。としても、意味あり気で価値あり気な、その実、なんとも不毛なアートが、芸術の名を騙り、どんなにこの世に蔓延っていることか。怒りが詩をつくるとは夙に聞いてはいたことではあるが、」・コクトーに言わせればピカソの絵画は絵画そのものへの怒りの産物だそうだ。とは言え、私は別にこの世のアート・シーンに怒りをもって創作していたわけではなかった。むしろ、トーマス・マンの「トニオ・クレ一ゲル」の作に日く、「もし表現の悦楽が、われわれをいつも生気溌剰とさせていないとすると、魂の認識だけでは、われわれは必ず間違いなくe陰鬱になるであろう…」(実吉捷郎訳)。つまり、その言に触発されて私のアートは始まったらしいのです。なぜなら、所謂アカデミックを標模する近代絵画の不毛性をこそ、私は私の仮想敵としてヤッツケテいたことではあったのでした。因みにアカデミズムとは権威主義的表現主義のことであり、有体に申せば類型的な美的意識の啓蒙と際限のない自己模倣の繰り返しのことだ。だから、そんなことを付度していた私はある深夜、だったらそんなつまらぬ能書きなどを垂れずに、マンの言うところの「表現の悦楽」に自ら関与してみてこそ、君の明日があるのでは!の天啓があったのでした。そうかそうかと、私はベットから飛び起き、なにも考えずに手元にあったボールペンを手にし、たまたま傍らにあつた画用紙に意味もなくボールペンを塗りたくったものです。黒と青と赤、たった三色のペンでしたが、まるで知恵遅れの子供のように塗りたくっていると、その画用紙の表情が一瞬毎に変化をしていくのでした。その変化の妙は私を魅了しました。私はそれを「景色」が変わると称し、時を忘れて没頭しました。その時、私が留意したことはたった−点でした。何かのように見えてはいけない。海のうねりのようでも、深夜の森のようでも、天空に煌めく星空のようであってもいけない。それでは前衛を衒ったただの古めかしいサンボリズムにすぎないではないか。だから、そこでの私が私に求めたものは何ものの象徴であってはいけないと言うことだった。見る人がそう見てしまうことまでは作家としては関与しない。なぜなら、それはそれでとても頬笑ましいことではあるのだから。ではあるが、カントの物自体を涙って言えば、作家の意図としてはイメージによるイメージのイメージ自体でなければならない。しかし、その評価はこ観覧の諸兄諸姉のものであり、私のものではない。いかが判断されましょうか。                         
この展覧会を亡き母に捧ぐ−アツキオ・タナカ

「もの派」輪郭くっきり(321asahi)

世界美術史への定着に挑む
 1960年代後半~70年代前半、石や鉄、木材といった「もの」そのものを捷示
 し、物賓同士、物寮と空間の関係を問うような現代美術が、日本に相次いで現れた。
 「もの派」と称される動向は、内外の評価が高く、いま米国では大規模な「もの派」
 展が開かれている。米国在住の美術史家・富井玲子さんが同展を評した。


米の展覧会 富井玲子さんが見る

 「太陽へのレクイエム もの派の美術」展が、4月14日まで米国・ロサンゼルスで開催されている。といっても美術館の主催ではない。プラム&ポーという商業画廊で、取
り扱い作家の一人には村上隆が入っているから、日本とは縁がある。
 ロスらしく自然光を生かした屋内スペースとともに、駐車場なども活用した野外展示もある大規模な企画。例えば、中心作家の関根伸夫の場合、「もの派」の起爆剤とな
った「位相−大地」 (68年)の再制作のみならず、それ以前のトリッキーな作品、またスポンジや水の作品、さらには石を鏡面スチールの柱の上に載せた代表作まで集中的に紹介されている。
       
 くわえて李禹換を中心とした多摩美大系作家のほかに、高松次郎、横倉康二、高山
登、原口典之が出品して、「もの派」の輪郭が見えるようになっている。
 「もの派」展は国内でも海外でも何回か開催されてきた。が、本展は、展示の美し
さとインパクトで傑出しているだけではなく、世界美術史という舞台で日本の現代美術
がいかに歴史化に耐えていくか、という緊急課題に正面から取り組んだ点で重要だ。
 戦後日本美術、特に60、70年代の現代美術は、その先鏡な実験性でこれまでも海外で
高い美術史的評価を得てきた。しかし、世界美術史における定着度は必ずしも高くな
かった。
 なぜか?
 それは、美術には審美的・学術的評価とは別に、作品のモノとしての市場的評価があ
るからだ。これは単に商品売買の問題ではない。個人コレクターに収集され、さらには
美術館の収蔵品となることでモノとしての評価が固まっていく。これが学術的評価と連
動して総合的評価となり歴史に定位置を確保する。
 特に「もの派」の作品は一回性の設置として構想されることが多いので、モノとして
の作品が残らないきらいがある。
 本展は、吉竹美香という堅実な「もの派」研究者がゲストキュレーターを務めて学術
的評価を目に見える形で提示するとともに、商業画廊が作品のモノ化(永続化)に熱心
に取り組んで市場的評価の向上をめざし、それを受けて立った作家たちが全面的に協力して成立した稀有な企図である。そのうちどの一着が欠けても、本展は画竜点晴を欠い
たことだろう。

吉本隆明さんを悼む(319asahi)

思想の「後ろ姿」見せてくれた
高橋源一郎(作家)

いま吉本さんについて書くことは、ばくにはひどく難しい。この国には、「わたしの吉本さん」を持っている人がたくさんいて、この稿を書く、ほんとうの適任者は、その中にいるはずだからだ。
吉本さんは長い間にわたって、多くの人たちに、大きな影響を与えつづけてきた。
けれども、その影響の度合いは、どこでどんな風に出会ったかで、違うのかもしれない。
半世紀以上も前に、詩人としての吉本さんに出会った人は、当時、時代のもっとも先端的な表現であった現代詩の中に、ひとり、ひどく孤独な顔つきをした詩を見つけ驚いただろう。そして、この人の詩が、孤独な自分に向かって真っすぐ語りかけてくるように感
じただろう。
60年代は、政治の時代でもあった。その頃、吉本さんの政治思想に出会った人は、社会や革命を論じる思想家たちはたくさんいるけれど、彼の思想のことばは、他の人たちと同じような単語を使っているのに、もっと個人的な響きを持っていて、直接、自分のこころ
の奥底に突き刺さるような思いがして、驚いただろう。
あるいは、その頃、現実にさまざまな運動に入りこんでいた若者たちは、思想家や知識人などいっさい借用できないと思っていたのに、この「思想家」だけは、いつの間にか、自分の横にいて、黙って体を動かす人であると気づき、また驚いただろう。
それから後も、吉本さんは、さまざまな分野で思索と発言を続けた。そこで出会った人たちは、その分野の他の誰とも違う、彼だけのやり方に驚いただろう。
吉本さんは、思想の「後ろ姿」を見せることのできる人だった。
どんな思想も、どんな行動も、ふつうは、その「正面」しか見ることができない。それを見ながら、ばくたちは、ふと、「立派そうなことをいっているが、実際はどんな人間なんだろう」とか「ほんとうは、ばくたちのことなんか歯牙にもかけてないんじゃないか」と疑うのである。
けれども、吉本さんは、「正面」だけではなく、その思想の「後ろ姿」も見せることができた。彼の思想やことばや行動が、彼の、どんな暮らし、どんな生き方、どんな性格、どんな個人的な来歴や規律からやって来るのか、想像できるような気がした。どんな思想家も、結局は、ばくたちの背後からけしかけるだけなのに、吉本さんだけは、ばくたちの前で、ばくたちに背中を見せ、ぼくたちの楯になろうとしているかのようだった。
ここからは、個人的な、「ぼくの吉本さん」について書きたい。
ばくもまた、半世紀前に、吉本さんの詩にぶつかった少年のひとりだった。それから、吉本さんの政治思想や批評に驚いた若者のひとりだった。
ある時、本に掲載された一枚の写真を見た。吉本さんが眼帯をした幼女を抱いて、無骨な手つきで絵本を読んであげている写真だった。それは、ぼくが見た、初めての、思想家や詩人の「後ろ姿」の写真だった。その瞬間、ずっと読んできた吉本さんのことばのすべてが繋がり、腑に落ちた気がした。「この人がほんものでないなら、この世界にほんもの
なんか一つもない」とばくは思った。その時の気持ちは、いまも鮮明だ。
大学を離れ、世間との関係を断って10年後、ばくは小説を書き始めた。吉本さんをたったひとりの想像上の読者として。その作品で、ばくは幸運にもデビューし、また思いがけなく、その吉本さんに批評として取り上げられることで、ぼくは、この世界で認知され
ることになった。ばくは、生前の吉本さんに何度かお会いしたが、このことだけは結局、言いそびれてしまった。おそらく、それは「初恋」に似た感情だったからかもしれない。ばくが、この稿に適さぬ理由は、そこにもある。
吉本さんの、生涯のメッセージは「きみならひとりでもやれる」であり、「おれが前にいる」だったと思う。吉本さんが亡くなり、ぼくたちは、ほんとうにひとりになったのだ。

息をのむすごみと独創(321asahi)

ジャクソン・ポロック展
 伝説、至高、美術に革命。今回の回帝展のチラシに記される通り、画家ジャクソン・ポロック(1912~56)は、戦後美術の大潮流である米国の抽象表現主義を代表する。床に広げた画布に、アルミニウム塗料などを滞らせ、流し込む。身ぶりそのものの線を重ねたアクション・ペインティングで知られるが、70点ほどのうち、そこに至るまでが約40点もある。
 この30年ごろからの「助走期間」を見ると、同時代の米国絵画から、先住民の芸術やメテンコの壁画運動、超現実主義、そして何よりピカソの形書が目まぐるしく表れ、捲れ裁ける。潮流や他の作家が気になって仕方がない宙さ。酒にも依存する。風星でもキュービスム絵画でも、温貢さや岡本太郎の初期絵画に患た味わいを残す。一方、うねる筆の動きや、両の分割・稚居で絵画空間を漣等していく点は比較的一斉している。
 47年に画面全体に塗料をたらす手法を確立するが、それも天才的な啓示によるのではなく、先住民の砂絵や超現実主我の自動記述に影響を受け、試行を重ねた未だという。うねる筆致の発展形の面もあるだろう。
 しかしその到達点には息をのむようなすごみと独創がある。例えば「インディアンレッドの地の壁画」 (50年)は大画面全休に、銀色や白、貴、そして黒の滴りの線が重ねられている。
 モダニズム絵画は画面の外にまで広がるような平面性を特異とするが、この絵は、時に麦胆にしぶき、時に精妙に細く、時に神経質に集える線をうねりのように交錯させつつ重ねることで、官能的なまでの奥行きも獲得。それは作者の動きの軌跡であると同時に、視線の軌跡でもある。その様み重ねが宇宙の起源のような空間となり見る者を包む。透徹した意志によるコントロールすら感じさせるのだ。
 しかし発くことに、この表現をわずか4年ほどで手放し、再び土俗的で面的な要素の強い絵画に戻っていく。至高の表現は自身の持ち味とは違って居心地が悪かったのか、またしても裔さの故なのか。自動車事故で早世するまでの追い立てられるかのような変化に、進歩を旨とするモダニズムの申し子の姿を見る。  (相集委員・大西若人)
 ▽5月6日まで、東京都千代田区北の丸公園3の1の東京国立近代美術館。4月9、16、23日休館。

日常に異なる視角(321asahi)

「メグロアドレス」展
 階段の踊り場から見下ろすと、普段は舶用の通路のようなスペースの壁が白く塗られて
いて、さながら展示室。長坂常は日常に異なる視角を与える。東京・目黒区美術館で4月1日まで開かれている「メグロアドレス」展は、こうして始まる。目黒区ゆかりの若手6作家による展覧会だ。
 乾漆による人物像を見せる保井智貴や、=身近な風景を主に鉛筆で描く須藤由希子など、表現は多様。なかでも、スタイリッシュな展示を見せるのが、青山悟と平石博一のふたり組だ。19世紀の曲を平石が編曲した現代音楽が流れ、その楽譜を青山がミシンで刺繍にするさまが映像で投影される。傍らには仕上がった刺繍の譜面。「労働」がテーマに気づかずとも、薄暗い空間で、ミシン針とシンプルな音の反復に身を浸していると、見る側の神経も共振してゆく。

そぎ落とされ残ったもの 戸谷成雄展

チェーンソーによる木彫で矢口られる彫刻家の戸谷成雄(64)の近作や新作を集めた展覧会が27日まで、静岡県長泉町のクレマチスの丘・ヴァンジ彫刻庭園美術館で開かれている(水曜休館)。
 空洞の箱の表面性を問うような新作「洞穴の記憶」や高さ12Mの「雷神−09」など多彩な10点の中でも際だっているのが、「森IX」(2008年)だ=写真。
 ささくれ立ち、うねるような表面を持った高さ2.2Mの柱が、30本並ぶ。長い影を落とし、森というより、人の群れか。それも表面をそぎ落とし、内面だけが残った人の芯のイメージだ。
 手の跡が残る桂同士が響きあい、その間を歩くと招かれる感覚に。人間やものが存在することの意味を考えさせられる。        (大西若人)

清水晃と吉野辰海(314asahi)

決め技が語り出す
 60年代の「反芸術」から出発し、70年代に独自の表現を再構築したー。さいたま市・北浦和公園の埼玉県立近代美術館で25日まで紹介されている清水晃(75)と吉野辰海(72)を、平野到・学芸員は、そう評する。
 写真を使ったコラージュでも近年のレリーフでも、清水作品には何度もハサミが現れている。
 70年代後半からの代表的な「漆黒から」シリーズの立体の一部にも登場。海岸で拾った釣り針や竹ひごなどとともに、機械のように組み上げられている。
 ヤマアラシのようにとがった切っ先に身を包み、経済成長を遂げてきた世にあらがうかのようにも見える。ハサミは同シリーズの平面作品にも、姿を見せている。
 ものを切断し壊すと同時に、何かを創造する可能性も秘めた両義性にひかれるのだとか。いわば、反芸術と表現行為の隠喩だ。一方、前衛集団「ネオ・ダダ」にも参加した吉野は、一度見たら忘れられない犬の作品で知られる。
 やせた犬が人のように立ち上がって身をよじり、あえぐ。作者によれば、内臓を見れば人間も犬も同じで、犬は生命体全般のシンボリックな記号となっている。
一見グロテスクな犬からは、人類に普遍的な、苦悩も思索性も、内面からの叫びも見て取れる。
 ハサミにせよ犬にせよ。決め技となる表現要素を持ち、それによって語るべきことのある作家は強い。(大西若人)

「311」森達也監督に聞く(309asahi)

後ろめたいでも逃げずに言う
          
 森達也、綿井健陽、松林要樹、安岡卓治の4人が東日本大震災の被災地で撮ったドキュメンタリー「311」が公開されている。被災地取材のあり方を過激に問う内容だ。
 両親を失った子供が避難所にいるとの情報を得た森監督が、独りでいる少年に声をかける。ところが彼の両親は健在と分かる。失望を隠せない監督を別のカメラが捉える。
 「我々はなぜ被災地に行くのか。そこに被害があるからです」と森監督。「人の不幸を撮ろうとしているんです。何て卑しい仕事なんだ、と」
 福島県で放射線量の数値が上がるたびに、4人がはしゃぐ場面も映し出される。
 「怖くて仕方ないからハイになっていたんです。当然不謹慎だと言われるだろうが、カットしなかった。鉢呂経産相の辞任や東海テレビの誤テロップ騒動など、被害者への
配慮との理屈で自由にモノが言えなくなっている。そんな風潮にあらがいたかった」
 多数の死者が出た宮城県石巻市では、連休を撮影した安岡監督が遺族の男性から角材
を投げつけられる。
 森監督は言う。「怒るのは当たり前。まず『ごめんなさい』と謝ります。『でも、撮
ります』と。その矛盾を引き受ける必要がある。後ろめたいですよ。でもそこを紛らわ
せば、頑張ろう日本とか、そっちに行っちゃう。否定はしないが、一色になりすぎる」
 東京・渋谷のユーロスペース。順次各地で
4人の共著『311を撮る』も岩波書店から刊行された。(石飛徳樹)

デービッド・ホックニー大回顧展(307asahi)

風景画に新境地

 鮮やかな色使いのポップな具象画で知られるデービッド・ホックニー(74)は、英国で最も人気のある現役美術家の一人だ。そんな彼の、大半が初公開の風景画150点以上を見せる大個展(4月9日まで)が、ロンドンの王立美術院で開かれ、話題を呼んでいる。
 英国北部の故郷ヨークシャーの風景を過去8年間、精力的に措いた。「風景画というジャンルは古臭くなっているが、風景自体は古びてはいない。どうやって新鮮な見方をするかだ」と彼は蘇る。
 ロンドンの美大に学んだ後、1960年代に日差しの明るい米国ロサンゼルスに拠点を移
し、斬新なスイミングプールの作品群で国際的に名を成した。97年、死に瀕した故郷の親友に、「ヨークシャーの風景を措いたことがない」とけしかけられた。故郷の自然を見つめ始めた彼は、常夏の地にはない変転する季節の美しさを見直した。2004年ごろ拠点をヨークシャーに移し、自然の微妙な変化を細かく観察し、精魂を込めて風景画で表現した。
 2階にある13の展示室すべてを使った展示は、3本の大木の四季を描いた4作品に始まる。
続いて、繊細なタッチの水彩画や素描、屋外で描いた中サイズの油絵群、縦2・7Mで横6・1Mといった油絵など起大作数点、タブレット型の多機能端末iPadで描いてプリントされ
た50点あまり。
 目を引くのは、少しずつアングルを変えた9個のビデオカメラを使い、さまざまな美しい風景を異なる季節に撮影、編集した画像。ホックニーは、キュービスムに深い関心があり、ものを一つの視点からしか見ないカメラに疑問を持っているのだ。
 美術評論家のワルデマー・ヤヌスチャック氏は「たいへん野心的。所々けばけばしい作品もあるが、精神に衝撃を与える」と評価する。
 伝統的手法そして新技術を使って、さりげない田園や森を措いた作品からは、風景画で新たに挑戦したいという彼の膨大なエネルギーが感じられる。中でも・1Pad作品は、ぼかしと鋭い点や線が巧妙に表現され、その技量に目を見張らされる。
     (菅伸子・ライター)

2012年3月3日土曜日

人と自然へのまなざし

絵描き 貝原浩の仕事
チェルノブイリ・スケッチ「風しもの村」を中心に

世界最古の洞窟壁画3D忘れられた夢の記憶



















http://www.hekiga3d.com/

Pina/ピナ・バウシュ(302asahi)

踊り続けるいのち  動きこそがスペクタクル

 ヴィム・ヴュンダースとピナ・バウシュ。1970年代以降、映画とダンスそれぞれの領域で世界的な影響力を持ったドイツの同世代の文化英雄が、スクリーン上で夢の共演を果たす。撮影直前に死去した振付家の「不在」を改めて印象づける本作だが、悲しげな服喪に終始するどころか、見る者を快活な古びへと導いてくれる。国際色豊かなダンサーらが各々の書斎やトーンで斎る思い出、そして彼らによる驚異的なダンス……それらの端々に今もピナが息づくことを実感せしめるのだ。演出家は不在 をもって作品を完成させる存在なのだろう。
 では、映画の演出家はピナと仲間たちの偉業にどんな照明を当てるのか。様々なショットサイズやアングルを駆使することでダンスの映画化を図ることばもちろん、ダンサーの足元に広がる床面を強調する3Dカメラが、2次元に収まらない奥行きや重層性を視光化する。さらに本作にあってはカメラも踊るだろう。劇場からモノレールが行き交う街中へと飛び出し、ミュージカル映画のように優雅に、スラップスティック喜劇のように鹿々しく。まるでカメラの動きの振り付けこそが、映画作家の使命であるかのように…・。
 ピナのダンスは、古典バレエの美学から遠く離れ、動くことへの人間の原初的な欲望、それに伴う喜びや苦悩に立ち戻る。先鋭的な試みが同時に根源的な回帰となる証しであり、同様の試みが映画作家の側でも遂行されたと見るべきだ。19世紀末に映画は初の本格的な「動く映像」 として誕生し、初期映画の観客にとって人間の何げない動きこそが最大のスペクタクルだった。そんな映画の原初的な記憶に立ち戻ることで、本作は新驚3D技術の真の意味での黎明をも告げることに成功した。
   (北小路隆志・映画評論家)
 各地で順次、公開中。

寝台に浮かぶ生と死(228asahi)

ジャンミシェル・オトニエル展
 色鮮やかなガラスの作品で知られるフランスのジャンミシェル・オトニエルの日本初の回顧展「マイウェイ」が東京・品川の原美術館で開かれている。
                         
オトニエルは1964年生まれ。蜜蝋、硫黄、そしてガラスヘと素材を変えながら制作を続けてきた。可塑性のある素材を好むのは「私自身がつねに新しいものを求めて変化しているから」と話す。
 展示は約60点。夢想を誘う表現とともに、生の諸相を見つめる−斉した姿勢がうかがえる。それを端的に示すのが「私のベッド」=写真、2002年=だろう。
  
 天蓋付きの寝台を模した作品で、高さは3M近い。カラフルなムラーノガラスをつらねた天蓋はロマンチックだが、アルミニウムのリングによる装飾は無機葉でどこか冷ややか。寝台は誕生の場であると同時に愛と生殖の空間でもあり、病や死の床ともなる。その多義性から人間の生と死を浮かび上がらせている。
 ▽3月11日まで。月曜休館。

野田裕示 絵画のかたち/絵画の姿(229asahi)

表現の推移30年を見る

風景や人物を描くことから外れた抽象絵画は、そうした具体物のイメージを伝える必要もなく、ある意味でモノそのものとして存在する。画家・野田裕示(59)が1980年代に手がけた画面に木片などを張るレリーフ状の表現は、モノなら平面でなくても構わない、と絵画の概念を拡張した結果と映る。この30年の絵画約200点を軸にした回顧展の前半はそんな作品群で進む=写真上=は87年の作品。
こうした表現は反芸術の香りもするが、興味深いのは、思い切り重させた絵画を、次第に平面に収めてゆくことだ。91年以降は、カンバスの表面に同じ大きさの布を張り、切れ込みを入れて折り返して、その後に色を載せている。関心が表面性により強く移行したと見える。
自らルールや制約を設けて試行し、次の段階に移る極めて自覚的な手法は、近代的な科学実験に近い。しかし、手法だけで摩れた作品は生まれない。渋い色調の組み合わせや、ときに土俗的、ユーモラスな形態、陶や壁のような絵肌といった「野田調」が魅力になっている。
特に2000年前後からは、画面の一部にだけ張った布の縁が分割の「虫ごとなり、作家の
身ぶりを息わせる「描く」行為も多く加わる。抽象画本来の色と筆致、軽みのある切り紙のような形が浮遊感を生む。モダニズム的な構築手法が基底にありながら、時に古代の壁画などを思わせるのも興趣に富む。
展示室内では惜6・5Mに及ぶ新作「WORK1766」=同下=の制作過程を収めたビデオが流れているが、布を重ね、やすりで削り、という、モノとしての壁を作るような過程が含まれている。この作品では、やまと絵の山並みのような形態を重ね、近代の透視図法と
は異なる遠近感を目指したのだという。一枚の絵の中にも、作家活動と相似形の、手法と大きな意志が潜んでいるのだ。
白い壁と高い天井の不純物なき空間は、こうした手法や過程を確認し、絵画空間に身をゆだねるのに最適。そこに広がっているのは、「絵画の実験室」なのだ。 (編集委員・大西若人)
▽4月2日まで東京・六本木の国立新美術館。火曜(祝日の場合は翌日)休館。2月25日ま
で東京・京橋2の8の18のギャルリー東京ユマニテでも個展。