2014年7月24日木曜日

アートとわいせつ狭間で(723asahi)

3Dプリンター用 性器データ送信
 自身の女性器を3Dプリンターで復元できるデータをネット上で送付した女性が今月、わいせつ物頒布等の疑いで逮捕された事件が注目されている。データとプリンターによって生まれる立体は、造形表現の観点からどう考えられるのか。
 芸術表現における性器の描写は、現状では即摘発とはなっていない。近年の美術展では性器を措いた春画も、年齢制限などをつけて展示されている。逮捕された女性も「ろくでなし子」の名で活動し、自らの女性器をかたどった作品の個展などを開いてきたという。
 当たり前の技術
 今回の直接の容疑は、男性会社員に対し、女性器の形を復元できる3Dプリンター用のデータがダウンロードできるURLを、メールに記して送信したというものだ。3Dプリンターは型がなくても立休物が作れるため近年、医療や家電などの分野で普及、家庭用のものも売り出されている。アートの世界でも、「もう既存の技術の一つとして使われているので、3Dプリンターアートとか言わない状態」 (藤幡正樹・東京芸術大数援)だという。
 美術評論家の暮沢剛巳さん(48)は「再現されたものを見ていない以上、個射に
は判断できない」としたうえで、写真との近さを指摘する。「女性器から直接型どりしてプリンターで出力できる形なら、性器を直接撮ってプリントした写真に近いと判断されたのかもしれない」
一方で、「精細なデータであるほど、できるものは医学標本のようになって、わいせつ性は希薄になるのではないか」と指摘する。
「発注だけ」も芸術
 では、データを送信することは表現行為なのか。
 設計図などを元に業者などに作らせる「発注芸術」という発想は、1960年代ごろからあるとされる。建築や工業デザインなどで発注は当たり前だが、近代の美術では「自分で作る」という作家性が重視される。それを播さぶるため、例えば彫刻の制作でも、自らは手を動かさず、設計図などで「発注するだけ」であることを強調する概念芸術的な行為だ。
 さらに、「指示書」だけの表現も存在する。美術家の冨井大裕さん(40)は立体
作品だけでなく、指示書だけの表現も手がける一人。一例を挙げれば、展示室に
置かれた指示書に組み体操のような絵と指示が記され、鑑賞者がそれに従って挑戦すると、人の体によって「形」が現れる、というものだ。「完成したものだけでなく、作り方にも意味がある」と話す。
 では、今回の手法やデータをもとにできあがる造形はアートなのか。暮沢さんは、「表現は多様化し、絵画や彫刻のように形式がアートであることを保証する

わけではない。そうなると、新しい価値を提示できているかが判断のよりどころになるだろう」と話している。(編集委員・大西若人)

写真家に託した美術家の思い(514asahi)

呼び寄せ合う被爆地の祈り
 
美術家の内藤礼(52)と写真家の畠山直哉哲(56)が、東
 京・銀座で珍しい形の「2人展」を開いている。昨
 夏、内藤が故郷・広島の美術館で行った展示を、畠山
 撮影の写真で紹介しているのだ。それは内藤が初めて
 原爆と向き合い、被爆遺品を取り込んだ表現だった。

互いに発見、多くの人に伝えたい
 
薄暗い部屋に入ると、祭壇のような台。温かい光に 包まれて並ぶのは、被爆し
 焼けて溶けた17個のガラス瓶とその一つずつに寄り添うように立つ小さな木の
「ひと」。一輪の花を生けた新しい瓶も一つある。
 広島県立美術館での「タマ/アニマ(わたしに息を吹きかけてください)」と
題した内藤の展示は、見る者の心をわしづかみにする祈りの空間だった。
 内藤は平和教育を受けてきたが、原爆を作品テーマにすることはなかった。一
方で小さな立体などによる繊細な表現を通し、一貢して「地上に存在しているこ
とは、それ自体、祝福であるのか」を追求してきた。
 美術館から「ピース・ミーツ・アートー」展への出品作を依頼された暗も、ガ
ラス瓶に花を生けることを考えた。「花が生きている姿を見たい。そこは慰霊の
空間になるだろう」。水は原爆投下直後に、多くの人が求めたものでもある。
 そして広島平和記念資料館に被爆した瓶があることを思い出し、それを借りて
傍らに小さな木の「ひと」を立たせることにした。高さ34巧の「ひと」は、
東日本大震災や原発事故後から作り続けている。目を持ち、性別や年齢の違いも
ある「精霊」のような存在。「見たものを希望だと居じる人たちなんです」
 「誰かに使われていた瓶も人間のように思えます。背景には無数の人がいる。
そのそばで、励ましているのか、黙っているのか」
 「特定の誰かのために制作したことはなかったが、この作品では広島のあらゆ
る命を思った。でも展示では『ひと』はこちらを向いて、見る人すべてを居じて
いるんです」。展示を通し、家族や友人と語り、資料を読み、故郷に改めて出
あった患いがしたという。
 しかし、実際に鑑賞した人は限られていた。20年以上、内藤の展示を撮ってい
る畠山の写真を見て、「こういうものが存在したことを伝えられる可能性があ
る」と写真展を開くことにした。「私の作品は一見、小さく可愛らしいのです
が、畠山さんは惑わされずに、その内部に潜む存在の力をとらえてくれます」
 内藤は最近、「祈りや願い以外にアートに何があるのか」と感じ始めている。
畠山の写真なら、内藤の思いや模索も伝わるに違いない。(編集委員・大西若人)
 ▽31日まで、東京・銀座175のギャラリー小柳で。日・月曜休み。2
が参加する「椿会展」も25日まで、銀座の資生堂ギャラリーで。月曜休み。
 互いに発見、多くの人に伝えたい
 畠山直哉の話 
内藤さんの作品は素材や形態が繊細で小さい一方、形而上の世界を扱っているので、見る側が能動的にならないと意味や隠喩がくみ取れない。撮影とは解釈行為
ですが、特に、自分が試されている面がある。お互いに発見したり学んだり、写

真を通じて研究しあっているのでしょう。