2010年5月30日日曜日

ipad、触ってきました。



cabinetsさんが記事にしていましたが、丁度私もipadが気になって、学校の帰りに電気屋さんに行って触ってきました。

気になった重さは、ずっしりと重いということもありませんが、軽いということもなく、丁度ハードカバーの単行本というくらいでしょうか?鞄に入れておけば確実に重さを感じるというところでした。

しかし、このipad、やはり気になります。
何かしら異様な説得力めいたものを感じます。何故でしょうか?

cabinets先生も触れていましたが、グーテンベルク銀河系というように、印刷技術が情報の伝播を容易にし、世界を飛躍的に変えたといわれているのと同じように、今日のインターネットもそれと同等の革命が起きているとは言われておりますが、考えてみるとやはりそうなのだと思わずにはいられません。
インターネット、所謂電脳の世界をやはり私たちはごく自然に獲得しつつあるように思います。かのマトリックスや攻殻機動隊などのように映画やアニメでも表現されていますが、この電脳の世界は確実に私たちの生活の中に溶け込んでいて、直接的な領域とはまた別の、もう一つの世界を形作っているというのはその通りなのでしょう。

携帯やパソコンのメールもそうだし、このブログもそうですが、私がやっていてとくにそのもう一つの世界を強く感じたのは、かのミクシィで、現実的には知り合いではあるものの、あまり話たりすることはなくても、ミクシィ上では意外と饒舌にコメントをし合ったりしている。ちょっと変な言い方ですが、現実よりもかえって親密な関係であったりするわけです。
あれはミクシィ上だけでの人間関係が構築されているという奇妙な感覚を味わったものでした。

こんなふうに、おそらく私たちは意外な程に自然に電脳という世界を導入しているし、裏を返せば人間の世界像というのは、もともとほとんど観念というか妄想というか、所謂幻想によって構築されているということなのだと思われますが、明らかに私たちは今までとは違う世界像をつくりはじめているようです。

このことはもちろん表現ということにも関わってくることだと思いますが、このipadにはそういったことの楔となるような何かを感じずにはいられません。とは言い過ぎなのでしょうか・・・。

iPad



 先日鳴り物入りで発売されたiPad、徹夜で銀座アップル社前に行列して購入のニュースが、TV、新聞あらゆるメディアで紹介されている。iPodに続くアップルの新製品位に眺めていたのですが、どうも何か様子が違うように考え始めた。小生(cabinets)元々の機械音痴、PCを使い始めて10年を越しているのですが、どうも元々のところが理解できていない様で、時々とんでもない事態に陥ったりもするのです。PCをツールとして考える、とよく耳にしていたのですが、そうではない、確実に今までとは全く違うメディアなのだ、とはズゥーと思っていたのです。
 そこでiPadの発売です。様々な状況での利用が考えられるようですが、小生にとっての一番の関心事が「電子書籍」。4.5年前にも端末を使っての小説のイラストレーションの連載仕事をした事もあったのですが、未だシンプルなものでした。このiPadの出現で、少なくとも出版業界は何か大きな転換点に立ち向かわざるを得ないのでしょう。書籍、雑誌など、紙を媒体としたメディアは、一体どういう事になってしまうのか、正直不安でもあります。

先日、知人のアーティスト蓜島庸二氏の展覧会「グーテンベルク炭書/文明の始原に向けて」にお邪魔しました。このところ「グーテンベルク炭書」のシリーズで展覧会をしていらっしゃいますが、膨大な量の書物を、特殊な方法で焼き上げ、まさに「炭の書物」として発表しているのです。実に刺激的なオブジェ作品です。書物を焼くと云うと、ブラッドベリの「華氏451」を思い浮かべてしまいますが、SFの、小説以上に説得力のある力を目の当たりにしたものでした。紙と活字を使って、グーテンベルクが考え出した活版印刷術、「知の象徴」としての書物の終末と再生。氏の書物へのオマージュ作品は、実にいろいろな事を考えさせるものでした。
ITに取って代わられようとしている「書物」。

朝日新聞の「天声人語」に次のような記事がありました。

 旅に出る鞄に一冊の本をしのばせる。だが、巡る先々の楽しさに気もそぞろとなり、なかな
か活字に集中できない。<本の栞少し動かし旅終る>。近江砂人の川柳は、誰にも覚えがあろう一コマを切り取って微笑を誘う▼先の小紙俳壇には、日原正彦さんの(春風が十頁ほど拾ひ読み)があった。読みかけを風がめくる。夏の木陰にはミステリーもいいが、春風には恋愛短編集が似合いそうだ。だが某にせよ風にせよ、紙の書物ならではの光景が、やがては過去の感傷に遠のくかもしれない▼米国生まれの新型情報端末「iPad」が、鳴り物入りで売り出された。週刊誌大ながら様々な機能や可能性を満載している。中でもネットで買って読む「電子書籍」への関心は高い。先行する米国では「紙の本はもう買わない」という人が増えているそうだ▼品ぞろえが充実すれば、これ一台で行く先々が「書斎」になる。読書革命ともいえるが、旅の鞄に一冊だけをしのばせるのも捨てがたい。書店の棚からお供の一冊を選ぶのも、本好きの楽しみのひとつである▼今後は「電子」の猛攻に「紙」がたじろぐ図となろうか。とはいえ書物そのものにこだわる人は少なくない。詩人の堀口大学が、「僕は殺すと云われても、万葉集や古今集を革の装幀に仕立てる気にはなれない」と述べていたのを思い出す▼内容と外見が調和してこそ名著、という感覚だろう。いわゆる愛書家である。仕事柄、わが紙への愛着も」ひとしおだが、選択肢が増えたのを歓迎したい。食わず嫌いはひとまずおいて。

また別の記事でも

電書協、1万点販売

角川、秋にも新刊

 国内の主な出版社31社でつくる日本電子書籍出版社協会(電書協、代表理事・野間省伸講談社副社長)が、加盟社の電子書籍約1万点を、28日から発売されたアップル社の多機能携帯端「iPad」で販売する。今秋からの予定だ。電子書籍端末の魅力は、コンテンツ(作品)の品ぞろえにかかっており、約1万点の一気のラインアップは・iPad側にもメリットがある。
 対象は、電書協が直営する電子書店「電子文庫パブリ」でパソコンや携帯電話向けに売っている電子書籍。いずれも加盟社の既刊書で、2万点のうち当面は半数ほどを投入する。最多価格帯は500〜600円で、1Padでも同額で販売する。
 ラインアップには佐伯泰英さんの「居眠り磐音 江戸双紙」シリーズ、坂東眞理子さんの「女性の品格」、浅田次郎さんの「蒼考の粛」などベストセラーも多く含まれる予定だ。これに先立ち6月から・1PhOneでも販売する。将来は、・iPadだけでなくほかの電子書籍端末でも、条件が合えば販売していくことになりそうだ。一方、角川書店も独白に・⊥Padなどの電子書籍端末に向けて新刊や既刊のベストセラー、ライトノベル、漫画など数十点を、秋にも同時に販売即焔配鮎…妃謂姻の「天地明察」が有力候補になっている。他社との差別化を狙い、映像と電子書籍を組み合わせたり、ミニゲームから電子書籍に誘導したりする仕組みも作る。井上伸一郎社長は「遊びのノウハウから入って、本に導くような仕掛けを考えたい」と話す。(西秀治)


小生もiPadには興味津々なのですが、やっぱり紙の書物の魅力をいつまでも大事にしたいのです。「書物とは、まず手触りだ」とかって或るところに書いた事を憶い出します。

文芸・美術評論家の針生一郎さん死去=前衛芸術評論で活躍

526時事ドットコムより

 戦後の前衛芸術批評をリードし、原爆の図丸木美術館(埼玉県)館長としても知られる文芸・美術 評論家の針生一郎(はりう・いちろう)さんが26日午後0時2分、急性心不全のため川崎市の病院で死去した。84歳だった。仙台市出身。葬儀は6月1日午 前10時30分から川崎市多摩区南生田8の1の1の春秋苑白蓮華堂で。喪主は長男徹(とおる)さん。
 東北大文学部卒業後、東大大学院で美学を学 んだ。ダダイズムやシュールレアリスムなど前衛芸術への関心を高め、文芸評論家の花田清輝や美術家の岡本太郎らと交流。美術のほか文芸、社会評論で活躍 し、美術評論家連盟会長も務めた。金津創作の森(福井県)館長、和光大名誉教授。著書に「修羅の画家」「戦後美術盛衰史」「三里塚の思想」など。  (2010/05/26-22:13)

「芸術の危機」問いかける(528asahi)



 仏文学著の渋沢龍彦が翻訳した仏作家・思想家マルキ・ド・サド(1740〜1814)の小説『悪徳の栄え 続』が発禁処分となって、今年は50年にあたる。これを機に、出版元の現代思潮新社が裁判記録を復刊した。当時に比べ、わいせつへの視線が緩やかになったかにみえる現代。かつての「禁書」をめぐる裁判は、そこにどのような意味を投げかけるのか。(米原範彦)

裁判記録を復刊

 『悪徳の栄え 続』を刑法のわいせつ文書販売、同所持罪に問うた裁判は、「わいせつか芸術か」が問われる裁判として話題を呼んだ。今回復刊されたのは現代思潮社(当時)編集部編『サド裁判上』 『サド裁判 下』。裁判記録や文学者による弁護証言などを収める。
 『サド裁判 上』には、「猥嚢文書であるとは思いません」などの渋沢による陳述も紹介されている。
     
 サドは放蕩と虐待の末、『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え』や『閑房哲学』といった噂虐趣味や快楽主義があふれる問題作を残した。
 渋沢はサドに傾倒。1959年6月に『悪徳の栄え正』を訳し、現代思潮社から刊行。12月に『悪徳の栄え続』を同社から2千部出すが、60年に419部が押収された。裁判の開始は61年。被告は渋沢と同社社長の石井恭二さん(82)で、69年の最高裁判決で有罪(罰金)が確定した。
 「検察官も裁判官も白分の言葉で語っていなかった。極限の中で善かれたサドの思想が、そんな言葉で断罪される無意味さを感じた」。石井さんは今、そう回想する。
 裁判の前期は60年安保の余韻の中にあり、後期は全共闘時代と重なった。渋沢の妻、龍子さんは「渋沢は政治的発言をしないのに、反体制派や政府に批判的な学生から同志とみなされた。むろん体制側でもないから、困惑していた」と振り返る。
 最高裁判決の前夜に深酒をして大遅刻をした渋沢。公判後に飲み屋で芸術談議に花を咲かせた支援者の文化人…。「みな真剣ではあるけれ
ど深刻ではなく、お祭り騒ぎの様相さえあった。60年代の活気や面白さでしょう」
 当時にあって現代にないものは変革への希望ではないか、と龍子さんは語る。「現代は性表現の自由は広がったかもしれないけれど、革新の
エネルギーは失われてしまった気がします」
 性に果敢に切り込む表現で知られる写真家の鷹野隆大さん(47)は、この間の時代変容をこう指摘する。
 「サド裁判の時代、芸術とは性や暴力を解放するものだった。今は、野放し状態のポルノグラフィーがはんらんしている。当時の意味での『芸術』の出る幕はない」
 鷹野さんが今日指すのは「暴力によらないポルノグラフィー」。それは例えば「見る側、見られる側という一種の支配と被支配の関係を取り
除き、見る側も同時に見られるような」表現形態という。芸術かわいせつかではなく、「芸術でもありわいせつでもある、と考えたい」と話す。
 高校時代から渋沢作に私淑してきた美学者の谷川渥さんは、こういう。
 「エロチシズムは芸術の主要素の一つで、想像力や思想という、知的行為を必要とする。サドや渋沢の作品には、これがあったが、現代はぼとんどすべてが表層的になっている。裁判自体は『芸術かわいせつか』という二元論に立脚していたためナンセンスだったが、サドや渋沢作品、裁判記録を見つめ直すことで、現代は芸術が危機にひんしている時代、と実感できるはずだ」

2010年5月26日水曜日

清志郎さん幻のテープ巡る書籍(511asahi)


音楽の原点を探る


日本の「キング・オブ・ロック」、忌野清志郎さんが亡くなり1年が過ぎた。清志即さんが高校時代のガールフレ
ンドに贈った録音が見つかったが、それを見つけたのが作家の神山典士さんだ。発見の経緯などを明かしたノンフィ
クション『忌野清志郎が聴こえる 愛しあってるかい』(アスコム)を刊行した。(近藤康太郎)

 清志郎さんががんで亡くなったのは昨年5月。神山さんは、出版社から清志即さんについて執筆を依頼され、まず、高校のころすでにプロデビューが決まっていた清志即さんの原点を探ろうと、都立日野高校の同窓生に片っ端から当たるローラー作戦″をとった。
 「まったくの幸運ですが、同窓生の一人から『初恋の人がいたらしい』という証言を得た。現住所を調べあげて会いに行くと、『たしかに高校2年のころからつきあっていた。高3の冬に清志郎さんからテープをもらったこともある』と言うんです」
 彼女がプレゼントした手袋のお礼にと、ソニーのオープンリールに録音されたテープが、清志郎さんから贈られた。初期RCサクセションのメンバーのトリオで演奏している録音だった。3人で評論家になりきり座談会をしたり、DJごっこをしたり。作られたのは、1968年ごろと思われる。 2人が交際するきっかけになった清志郎さんの爆笑ものの年賀状、教室で会話を交わせないシャイな2人がつっった交換日記などもあった。
 清志郎さんの係累には、『大菩薩峠』の著者中里介山ら、多くの「表現者」がいることも分かった。
 取材の最終盤、神山さんは清志郎さんの伯父を訪ねた。清志郎さんは実母を早くに失い、伯母に引き取られて育った。生みの母の兄だ。「最晩年に至るまで、清志郎さんが足しげく通い、親しく話をしていた重要人物」だという。
 「呼び鈴を押して玄関が開いた瞬間、私は日を疑う思いだった。/-清志郎さんだ!/そこに現れたのは、ディップこそつけていないが白髪をツンツンと天に向かって伸ばし、笑うと溶けてしまうような細い目をした小柄な老人だった」 (本文から)
 伯父は中学、高校教師をしていたが、夢介という筆名で著作もあった。
 清志郎さんの最後のアルバムとなったのは、米ナッシュビル録音の「夢助」。夢を見続ける男、Dreamerの和訳と推測されていたが、神山さんは「夢介を『ゆめすけ』と読んだ、清志即さんの自らのルーツへの思いがあったのではなかったか」と想像している。

荒川修作さん死去(520asahi)


現代美術家、NYで活躍
 養老天命反転地などの奇抜な作品で現代美術界に波紋をなげかけ、国際的に知られた美術家

現代美術家、NYで活躍

荒川修作(あらかわ・…しゅうさく)さんが19日、ニューヨークの病院で亡くなった。73歳だった。
 第2次大戦後の美術界をガードした一人。長くニューヨークを拠点に活動し、欧米でも高く評価された。
名古屋市生まれ。1950年代から既製の美術観を覆す作品を発表。60年代には赤瀬川原平、篠原有司男らと前衛的活動を続けたが、61年には渡米、英語や数字、記号などを画面に取り入れる図式的作風を展開したのち、建築に接近した。岐阜県養老町の公園「養老天命反転地」や、東京都三鷹市の集合住宅「三鷹天命反転住宅」などの新奇な試みが話題になった。
 妻で詩人のマドリン・ギンズを、仕事上でもパートナーとした。「死なない」をキーワードとし、「天命反転を実行せよ」と唱えていた。現在、「死なないための葬送」と題する個展(6月27日まで)が、大阪・国立国際美術館で開かれている。

シカゴの空の下で(526asahi)



 シカゴに暮らしていた20年前、夏になると夫とともに、中西部の穀倉地帯コーンベルトをドライブした。見渡す限りのとうもろこし畑に、サイロが点在する景色が延々と続く。
 蒼い空に浮かぶ白い雲、遠方から近づいてくる雨雲、稲妻が光り始めるや、音をたて落ちてくる大粒のヒョウ。目前で展開する空の変化に見飽きることはなかった。
 ヘンリー・ダーガーの絵を初めて見た時、その天候描写へのこだわりが印象的だった。縦横に広がる雲や、地面にたたきつけられて弾け飛ぶ雨粒などが執紛に描かれていた。後から知ったのだが、彼は10年間にわたり「天気記録」をつけ、天気予報と実際の天気を比較するほどの天気フェチだった。テレビもネットも無い時代、気象現象は自然のスペクタクルだったのだろう。生前のダーガーを知る数少ない人のひとり、大家のラーナーさんによれば、彼は天気のことしか話さなかったそうだ。
 ダーガーは1892年シカゴに生まれた。幼くして両親と死別すると、孤独な生涯を送った。親類も友人もなく、1973年に亡くなった後、暮らしていた部屋には膨大な書き物と絵がのこされた。書き物の一つは「非現実の王国で」という題の15巻、1万5千ぺーじを超える小説だった。7人の美少女「ヴィヴィアン・ガールズ」が、子供を奴隷として虐待する残虐な男たちと闘いを繰り広げる奇妙奇天烈な冒険活劇。そしてこの物語を図解するために、雑誌や新聞から切り抜いた挿絵や写真を張り付けたり転写したりして、長さ3メートル超のパノラマ画を作り出した=写真は「ジェニー・リッチ一にて(部分)」。
 薄幸な少年は周囲とうまく人間関係を結ぶことができず、自らの空想に閉じこもる。やがてそのファンタジーを記録することが生きる目的となり、彼が描いた雲のように拡大し続けた。最後には現実と虚構が逆転し、「非現実の王国」に生きた。その架空世界で、シカゴの気候は奇妙なリアリティーを保っている。

小出由紀子さん(キュレーター)

理想追えぬむなしさ(521asahi)

国立美術館・博物館の事業仕分け

 鳩山政権による「事業仕分け」第2弾(前半戦)の結果が出て約3週間が過ぎたのに、役所内にはまだ、むなしい空気が漂っている。国立の美術館・博物館の収集事業について「事業は拡充せよ」 「だが投入する国費の増額は認めない」との判定を下された文化庁のことだ。
 美術館・博物館を運営するのは、国立美術館、国立文化財機構の二つの独立行政法人だ。仕分け人は、館の施設を結婚披露宴やパーティーの会場として貸し出してでも自己収入を増やすよう求めた。だが、両法人は収入の9割を国からの交付金・補助金に依存している。1割しかない自己収入をどこまで増やせるというのか。
 川端達夫文部科学相は18日の閣議後会見でこう話した。「大事に保管する、保存するのが本来の目的。お客さんがたくさんくるとか、収入があるとかないとかいう話が目につきがちだが、できないことはできない」
 語られる目標は素晴らしい。だが、それを実現する道筋が示せない−−。美術館問題の中に、普天間問題でもがく鳩山首相にも通じる構図を感じた。
 目標を高らかに掲げることはリスクが伴う。実現できなければ、政権を信じた国民も無力感に襲われてし事つ。だからこそ目標を実現しようと懸命に走りまわる人間が必要ではないか。
 国立美術館の改築工事の大変さを描いたオランダのドキュメンタリー映画「ようこそ、アムステルダム国立美術館へ」 (今年8月渋谷ユーロスペースなどで公開予定)にヒントがある。
 この美術館、大規模な改築による館の生まれ変わりを目指したが、次々と障害にぶつかる。地域住民に反対され、設計変更を強いられる。入札も参加業者が少なく、工事費が予算を超える。だが映画からは、館の再生にかける館長や各部門の責任者の学芸員たちの熱情や意欲がひしひしと伝わってくる。
 仕分けで示された「目標」を実現するには、副大臣・政務官級の政治家か、文化庁次長級以上の官僚が強力な指導力を発揮する必要がある。法人のお金が余ったら国に返納しなくてはならない制度もあり、そうした制度の見直しは役所の1部門では手に余るからだ。美術館の展示の充実という理想を信じ、この間題を24時間考え続けるような熱意のある担当者もほしい。
 オランダの館長はこう話していた。「私にとって大事なのは理想が守られるか否か。それが私の基準だ」
 現実を前に妥協を強いられたとき、理想の中核部分が溶けずに残るかどうか。異国の文化の担い手たちのしぶとさに脱帽しつつ、彼我の理想の強度の違いについて考えさせられた。
      (赤田康和)

2010年5月17日月曜日

芸術の制作現場見せます(514京都新聞)


作品展示の準備が進む作家のスタジオ(京都市上京 区)

 京都市上京区にスタジオを構える芸術家たちが5月15、16の両日、制作と生活の拠点を公開して 作品を展示するイベント「鞍馬口美術界隈(かいわい)」を催す。各会場は徒歩15分圏内。付近を歩きながら芸術を身近に感じてほしいと、初めて企画した。
 画家の寺島みどりさんが、2月にスタジオを開いたのをきっかけに、近所に住む芸術家たちに声を掛けた。画家の安喜万佐子さん(16日のみ)、陶芸 家の生駒啓子さん(同)ら烏丸鞍馬口周辺に住む5人がスタジオを公開し、作品展示や公開制作を行う。
 また、企画の「飛び地」として、若手作家3人が活動する南区久世の「studio90」も特別参加する。
 寺島さんは「一般の人に見てもらうことが作家の力にもなる。制作現場を見たいという人に、楽しんでもらえたら」と話す。
 開催日時は会場によって異なる。上御霊神社近くの会場で企画協力の「HRD FINE ART」(上京区上御霊竪町)で、詳細を書いた地図を配布 する。問い合わせはHRDの原田明和さんTEL075(414)3633。

2010年5月16日日曜日

描くことへの愛を貫く(426asahi引用)



イラストレーター安西水丸さん
 安西水丸さんは優しい笑顔で静かに話す。自分には苦悩がないと言う。創作に思い悩むあまり自らの耳を切り落としたゴッホのような人たちとは、まるで違うのだそうだ。
 「僕は絵描きではなくてイラストレーター。描くことが楽しくて仕方がないんです」
 依頼者の狙いを聞いて、どう表現しようかと考えると、いつも心がおどる。白い紙を前にすると気持ちがたかぶる。壁にぶつかったとか、描けなくなったという経験は一度もないという。「出来上がると、またこんないいの描いちゃってまいったな、なんて調子ですね」
 絵は子どものころから好きだった。明治生まれの厳格な母親には、「頼むから絵描きにだけはならないでおくれ」と言われた。それこそゴッホのような生き方を恐れたのかもしれない。失望させたくなくて勉強もしっかりやる」こっそり絵も描き続けた。母親の留守中に描く。布団の中で構想を練る。背徳の甘美なよろこび、燃え上がる禁断の恋。描くことへの愛はひそかに育まれ、その愛は貫かれた。
 「本当は絵が好きなのに、途中で捨てちゃう人がいるでしょ。やめて銀行に入ったとか。でも、やっぱり忘れられなくて勤めの帰りに絵の学校に通い始めたとかね、あとで苦しむ。愛に背いたからです」
 世界でいちばん描くことを好きなのは自分、と信じて続けてきた。うまいかどうかは別にして、その自信は揺るがなかった。描く人が絵を好きで、楽しまなければ、見る人も楽しくならないという。「あるんです、うまいんだけど何だか好きになれない絵って。描いた人に会ってみると、あ、やっばりなあということが」。表現者が苦悩することはやさしい。だが描くことを愛し、楽しみ続けるという境地には、誰もがたどりつけるものではない。
 安西さんは下書きも描き直すこともしない。もう一枚描いたら、もっと良くなるなどという考えは「さもしい」と嫌う。作品づくりは一発勝負。描き手のすべてが、白い紙の上に一気に露出される。
 「ばっと描いて、それでダメなら、自分がダメだということ。それだけなんですね」。優しい笑顔が、孤高の剣豪のようなニヒルな微笑に、一瞬変わった。 (小林伸行)

2010年5月14日金曜日

「SQUARE FANTASY」展



こちらはデンマークで開催されている幻想系アーティストのグループ展です。
わたくし菅原優も出品しています。

スクウェアということで、30×30cmの正方形に絵の大きさが統一されています。
プレス画像の一番右の列、下から3番目が私の作品です。画像 クリックで拡大します)

〈場所/日程〉
Groennegade 3 • 9300 Saeby • Denmark • Phone. +45 2012 2420
Openings hours Easterdays: 13:00 - 16:00 Saturdays 10:00 - 13:00
Openingshours: thursday & friday 13:00 - 16:00 last day of exhibition may. 15


〈出品作家〉
Katarina ALI • Annie BERTRAM • David M. BOWERS • Claus BRUSEN • Val DYSHLOV
Francois ESCALMEL • Magda FRANCOT • Andreas N. FRANZ • Kaelen GREEN • Linda GROEN
Gene GUYNN • Michaël HIEP • David HOCHBAUM • Scott HOLLOWAY • Tommas JØRGENSEN
Lisa Mei LING FONG • LukÁŠ KÁNDL • Steven KENNY • Richard KIRK • Dirk LARSEN • Edith LEBEAU
Gary LIPPENCOTT • Micha LOBI • LUDMILA • Ver MAR • Bethany MARCHMAN • William McDERMITT
Ansgar NOETH • Voytek NOWAKOWSKI • Peter van OOSTZANEN • Jose PARRA • Marcus POSTON
Tim ROOSEN • José ROOSEVELT • Lee Harvey ROSWELL • David STOUPAKIS • Yu SUGAWARA
Carsten SVENNSON • Daniël van NES • Raf VEULEMANS • Cas WATERMAN • Cliff WALLACE
Mark WILKINSON • Patrick WOODROFFE • Rodbney WOOD • Olivier ZAPPELLI • Chet ZAR

2010年5月11日火曜日

映画「宮廷画家ゴヤは見た」


 画家をモチーフとした映画というのも沢山ありますが、自分も一応は絵の世界に身を置いていることもあってか、どうも別の映画とはまた違うちょっとした親近感らしきものを勝手に抱いてしまったりしていますが、この画家をモチーフにした映画というのは総じて所謂「ハズレ」が多いという評判がどことなくある気がします。

そんな中でこの映画「宮廷画家ゴヤは見た」であります。
これはなかなかどうして面白い作品でございました。

 この映画まず画家のゴヤを題材にしていると思いきや、題名をよくよく読んでみるとその通りであるように、いってしまえば主役はゴヤではなく、あくまでゴヤが見ていたものに焦点があっているのです。
 もちろんゴヤも出てくるのですが、ゴヤという人はこんな人だったというような内容ではありません。ゴヤが生きた当時のスペインでは何が起きていたのか、そして、その当時のスペインに生きた人たちはどんな現実を見ていたのか、そんなところがこの映画の題材になっているようです。

 この映画にはどこから湧いているのかよくわからない異常な程のリアリティというものがあります。こういった昔のヨーロッパを題材にしている映画は沢山ありますが、その中でもこれはちょっと異例という感じで、何でこの映画はこんなにもリアリティがあるのか不思議に思う位でした。
 大抵は中世の町並みなどが出てくれば、かっこいいな~とか何とか思って眺めていますが、どっこいこの映画はそんな観光旅行気分をはね除ける重みがあります。
美しい町並みに「この石畳には数多くの人間の不条理な死によって流れた血が染み込んでいるのだ」そんなことを考えずにはいられない。そんな重みがあります。

 ヒロイン(?)にかのナタリー・ポートマンが出ていますが、彼女がなかなかショッキングな変貌を見せてくれます。そこも見所でしょう(その状態は直視できないものがありますが)。

この「画家映画」は「アタリ」のようです。

機会があればどうぞ。

OZIBISM-幻視・屋久島展



美術学科の講師陣、スタッフの展覧会、近況などの案内・報告をお知らせしてゆきます。
まずは、美術学科主任の建石修志参加の展覧会の案内から。
◉OZIBISM-幻視・屋久島展
5/22(土)~30(日)
 福島県鏡石 鹿島神社参集殿
 tel.0248-62-1670
 (門坂流、柄澤齊、勝峰富雄、多賀新、建石修志)の5人展。
http://cherubim.verse.jp/news/10ozibism-kashima.html
銀座青木画廊から始まったOZIBISM展の巡回展。


東京から離れての展覧会ですが、お近くの方は是非ご高覧の程を。

2010年5月9日日曜日

ジョゼフ・コーネル×高橋睦郎 箱宇宙を讃えて



場所: 川村記念美 術館 
期間: 2010年4月10日(土)~7月19日(月・祝)
*月曜日(5/3と7/19以外)、5/6(木)休館

貝 殻や星図、リキュール・グラスや古い絵画の複製など、小さな品々が詰まった手作りの木の箱。コーネルが地下室のアトリエでこつこつと作り続けたそれらは、 美術作品でありながら、彼自身の幸せな子供時代を封じ込めた宝物箱、叶わぬ夢や憧れのための飾り棚といえるものでした。そしてまた、両手で抱えられるほど の大きさの箱は、のぞき見る人の空想しだいで、どこまでも拡がっていく無限の宇宙にも姿を変えます。誰もが心の奥に大切にしまいこんでいる世界。その豊潤 さや甘美さを、コーネルの箱は思い出させてくれるのです。

そんなコーネル芸術を深く敬愛する高橋睦郎(むつお)は、1993年に「この世 あるいは箱の人」と題した詩をつくり、この稀代のアーティストを讃えました。そして本展では、当館が所蔵する7つの箱作品と9つの平面コラージュひとつひ とつに捧げた詩16篇を新たに発表します。コーネルの創作と同じくひそやかに綴られた言葉は、その「小さく広大な世界」を清新な光で照らし出すにちがいあ りません。

美術家と詩人、20世紀のアメリカと現代の日本——異なる時空に生きながら、それぞれ独自の小宇宙を創造したふたりのコラボ レーションを通じ、これまでにないコーネル・ワールドを体験していただけることでしょう。

「鉄男」世界仕様に(430asahi引用)


(「鉄男 THE BULLET MAN」)

シリーズ3作目トライベッカ映画棄で上映

カルト×合理性

 暴力、猟奇、エロス。カルト映画の世界で絶大な人気を誇る塚本晋也監督の看板作品「鉄男」シリーズの新作「鉄男 THE BULLET MAN」が今月、米ニューヨークのトライベッカ映画祭で上映された。怒りで体が鋼鉄に変化する主人公の設定はそのままに、世界でうける「カルトな娯楽映画」を目指す監督が出した一つの答えとなる作品だ。  (ロサンゼルス=堀内隆)

塚本普也監督、「苦悶」を柱に

 3月、人道や環境問題に貢献した映画人を顕彰する「グリーンプラネット映画賞」に参加するため訪れた米ロサンゼルスで、塚本監督に話を聞いた。
 「鉄男」シリーズの第1作は1989年に誕生した。変哲のない暮らしをしていた男の生身の身体が全身まるごと鉄で覆われ、さらに銃器と化していく。男自身は、その変身の訳が分からない。ホラー色を色濃く帯びた不条理劇だ。
 それから20年。シリーズ3作目となる今回の「鉄男 THE BULLET MAN」制作の話は、米国で持ち上がった。シリーズ2作目の「鉄男Ⅱ BODY HAMMER」 (92年)を映画祭で見た米ハリウッドのプロデューサーから「米国版を作らないか」と持ちかけられた。プロデューサーを買って出た中には、クエンティン・タランティーノ監督もいた。
 だが、壁が立ちはだかった。「鉄になるのはおもしろいけど、何で鉄になるのか分からない」。それが、米国のプロデューサーたちの意見だった。
 ある程度一般受けを狙わなければならないハリウッドの論理で映画を作るのは、観客層の「射程」を絞り込むカルトの世界で生きてきた監督には想像以上に難しい作業だった。人間が鋼鉄の兵器に変わるという説明不能の設定こそが持ち味のシリーズだ。
 「鉄男のパワーは合理的に説明できない。鉄男の本来のテーマと、鉄になる『合理的な理由』が重なる部分を、ずっと探していた」と塚本監督。ようやく撮影計画が始まったのが07年末。昨年のベネチア映画祭で上映された後も、観客の反応をもとにせりふに手を加え、追加撮影や再編集の労も惜しまなかった。一般の観客をどう引き込むか。苦
労の跡は筋書きにみられる。東京の外資系企業で働く主人公アンソニーは、鉄の「鎧」と化した人間兵器に変わる力がある。謎の男に息子をひき殺され、それでも「怒りの感情を持ってはならない」という両親の教えを守ろうとして苦悶する。「世界を破壊する力を持つ男が、その力を使っていいのかどうか悩むところは、米国など海外の観客も同じ視点で見られると思う」
 「グリーンプラネット映画賞」では「今年、最も期待される国際映画」に選ばれた。日本では5月22日に公開される。

パンク、音楽を超えて(422asahi引用)



マルコム・マクラーレンを悼む
  東京芸大准教授
( 社会学・文化研究)
  毛利義孝

 マルコム・マクラーレンとは何者だったのか。セックス・ピストルズの元マネジャー、70年代のパンク・ムーヴメントの仕掛け人というのが一般的な紹介だが、ピストルズ結成前からヴィヴィアン・ウエストウッドとファッションブティックを立ち上げ、パンクを音楽だけではなく、ファッションやライフスタイルを含む総合的な文化現象として広めたのは、間違いなく彼の功績だ。ピストルズ解散後は、音楽プロデュースの傍ら自らミュージシャンとしても活躍した。
けれども、これぼど毀誉褒I相半ばした人物も珍しい。ピストルズの成功をすべて自分の手柄にしようとする露骨な言動もさることながら、あらゆるスキャンダルやトラブルを話題作りに利用しようとするその露悪的な手法は、一般大衆だけではなくしばしば音楽業界内でも撃買った。揚げ句の果てには、解散後の権利関係を巡ってピストルズのメンバーとまで法廷で争つことになった。天才プロデューサーと評価される一方で、どこか「詐欺師」「いかさま師」のイメージが付きまとったのも事実だ。
 けれども、90年代になって、パンクが歴史の一コマになり、当時の時代状況が客観的に分析されるようになると、マルコムに別の位置付けが与えられつつある。それはシチュアシオニスト(情況主義者)の末裔としてのマルコムである。
 シチュアシオニストとは、フランスの思想家・映画作家、ギー・ドゥボールが50年代末に始めた、文化を通じた政治運動だ。現代社会をメディアと資本主義が支配する「スペクタクルの社会」ととらえるこの運動は、落書きやビラなど自律的なメディアを利用しながら白分たちの生活を再デザインし、メディアに奪われた都市生活を自らの手に奪還することを主張した。68年のパリ五月革命にも影響を与えたことで知られる。
 学生時代にパリ五月革命に参加しようとした(が、結局たけこ辿りつけなかった)マルコム自身、インタビューの中でシチユアシオ:ストに大きく影響されたことを語っている。実際自主レーベルや「ジン」と呼ばれる同人誌などのパンク文化のDIY(Do It Yourself)精神は、シチュアシオニストの戦術と重ね合わせることができる。一過性の流行に見えたパンクは、マルコムにとって、いささかひねくれた形ではあるが、68年の政治に対する彼なりの回答だったのではないか。
 今日、メディアと資本主義の支配はますます強固になりつつあるように見える。その一方で、インターネットやデジタル技術の発達のおかげで、パンク文化とは違った形の、新たなDIY文化を可能にする環境も整いつつある。ポップ・シチュアシオニスト、マルコムの死は、デジタル時代のパンク的な政治文化のあり方を再考するきっかけとなるかもしれない。

2010年5月1日土曜日

体験イベントスケジュール2010-2011

今後予定されている体験イベントの情報をお伝えしておきましょう。

美術学科体験イベント2010

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◆ 6月26日(土) 壁はキャンバスであった
◆ 7月17日(土) 偶然、無意識のデッザン
◆ 7月30日(金) フィギュア-人形もまた夢見る
◆ 8月 5日(木) 多層構造-混合技法の世界
◆ 8月10日(火) 身体はパーツの集合でもある
◆ 8月20日(金) 噂の遠近法
◆ 8月21日(土) イラストレーションを視野に入れて・・・
◆ 8月26日(木) 画面は世界である
◆ 8月27日(金) 変幻自在、顔は幾つもある
◆ 9月18日(土) モノクローム-鉛筆空間
◆10月23日(土) ミッキーマウスは誰だ?!

この中に気になるキーワードがあればそれは何かの縁かも知れません。
是非足をお運び下さい。そこには「美術」が待っています。

詳しい情報や学校案内などの資料請求、体験イベントの申し込みはこちらから↓
日本デザイン専門学校HP http://www.ndc.ac.jp/