2013年9月12日木曜日

「気合い100連発」震災描く(911asahi)

若手美術家集団
「Chim↑Pom」エリイさん

 1日まで六本木ヒルズの森美術館で開催していた「LOVE展」に、「気合い100連発」という作品を出していました。東日本大震災直後に、福島県相馬市で撮った映像作品です。
 現地で出会った地元の男の子たちと、ぶっつけ本番で完成させました。円陣を組んで、一人ずつ気合を発していく。「復興頑張るぞ」から始めたのですが、次第にアドリブに追われて「車欲しい!」とか「彼女欲しいー」などと出てきます。ニューヨークを含む国内外で上映したのですが、多くの人が見て泣いていました。
 私たちがつくっている現代美術は、今みんなで一緒に現代を共有している感覚を表現できる。「気合い100連発」では被災者の本音が出て、見ている人が震災のリアルさを感じ、心を震わせたのではないでしょうか。
 震災関係では、写真作品「RedCard」もあります。メンバーの一人が作業員として東京電力福島第一原発の現場で働き、サッカーのレッド九−ドを掲げたものです。この作品は後世の人がひと目見て、あっ、あの時代にこんなことがあったんだと分かる。美術作品の役割の一つを果たせるものになったはずです。
 私と現代美術の摸点は、高校の授業で行った「横浜トリエンナーレ2001」です。銀色の玉を海に浮かせた草間彌生さんの作品などがありました。リビングに飾ってある西洋絵画だけでなく、頭の中で思っていることを形にする美術があることを知った。意味不明にみえるけれど、明快なところが面白いと思い、自分でも始めたんです。
 今、日本社会で気になっていることですか? それは、写真撮影をここ渋谷にした理由と関係します。大好きな街だけど、歩いている人のことを考えないで開発している。わざわざ遠回りしないと駅に行けない。何でこんな動線にしたんでしょうか。
                  
 センター衝のネズミを捕らえて剥製にした「SUPER RAT」も、渋谷で遊んでいて生まれたんです。まだ、どうできるかは分かりませんが、渋谷のこの動線問題も作品にしたいですね。普段はめんどくさがり屋ですが、美術のためなら、あらゆることをやります。カンボジアでは地雷撤去の作品も作りました。
 自分のライバルは、他の誰かではなく、一手間をかける気力でしょう。そんな人生の姿勢を見せつつ、芸術家として生きていく覚悟です。
       (聞き手・高野真吾)

刺激・挑発の新「指輪」(910asahi)

ワーグナー生誕200周年バイロイト

 ドイツの作曲家ワーグナーの生誕200周年の今年、ワーグナー上演の殿堂、バイロイト音楽祭では7年ぶりの新演出「ニーベルングの指輪」4部作に注目が集まった。ドイツ全土でワーグナー上演が相次ぐ中、大いに議論を巻き起こした新「指輪」はバイロイトの存在感を改めて示すものとなった。
 旧東ベルリンの劇場フォルクス・ビューネを率いるフランク・カストルフは演出の狙いを「石油を巡る闘争」と説明。ただ、石油に関連するモチーフは現れるものの、人間の醜い抗争や社会主義の理想の失敗といったテーマが前面に出た。
 舞台は米国のガソリンスタンド兼モーテルからバクー油田の石油採据施設、ベルリンのアレクサンダー広場、ウォール街などに設定され、回り舞台を使った巨大な装置は非常に印象的。映像を多用し、歌っていない歌手の演技までも同時並行で舞台に映し出す手法は、特に演劇的な「ラインの黄金」で成功した。
 だが、挑発的な演出で有名なカストルフは本分を忘れない。英雄ジークフリートがカラシニコフで大蛇フナフナーを撃ち殺したり、巨大なワニが舞台に現れて森の小鳥をのみ込んだり、と観客を挑発。終演後には怒りのこもったブーイングの嵐を受けた。一方、バイロイトに初登場の指揮者キリル・ベトレンコは観客からも批評家からも絶賛された。ブリユンヒルデ役のキャサリン・フォスターやウォータン役のウォルフガング・コッホら歌
手陣も実力を示した。
 世界のワーグナーファンの注目を集めるバイロイトの「指輪」は1976年にシエローが演出した「世紀の指輪」と比較されるのが常だ。カストルフ演出は、最近の「指輪」の中では刺激にあふれていることは間違いない。批評も「思いつきを乱雑に提示」 (DPA通居)から「近年、最もインスピレーションに富んだ指輪」 (南ドイツ新聞)まで大いに割れた。(バイロイト=松井健)

純度増す「どう描くか」(904asahi)

福田美蘭展
 
 何を、どう描くか。いや、どう措けるか。そこが、具象絵画のポイントの一つといえる。画家の福田美蘭(50)の場合、後者については何の心配もないだろう。1980年代後半のデビュー当時から、目の前の事物であれ、架空の存在であれ、どんなものでも実に達者にみずみずしく描く技量を見せてきた。
 だから作家自身も周囲も、「何を」に関心を抱きがちだったのではないか。90年代以降の代表作に新作を加えた約釦点の今回の展示を見れば、その関心は、おもに画面の外に注がれていると言っていい。
 ミレーや黒田清輝の名画を引用して、構図を変え、あるいは措かれた場面の前後を想像して再解釈を施す。安井曽太郎が画布に向かう姿を彼の画風さながらに仕上げた一枚など、その描写力、機知には驚く。一方で日常的な広告に着目したり、9・11に言及する社会性の強い作品を発表したり。常に絵画の枠を広げることに挑んできた。
 そんななかに、青く美しい富士山が、別撮りしたような楼の花のフレームの奥にたたずむ一枚がある=写真上。絵はがき的美意識をわざと強調したような表現だが、気がつけば、山頂が大きくえぐれている。タイトルは「噴火後の富士」。制作年は東日本大震災前の2005年だ。ここでも抜群の表現力で、人工的にしてのほほんとした美しさに、危機を潜ませている。同時に、時代を予知する表現者の感度に恐れ入る。
 震災後の新作群も多い。中では、例えば被災地の海底を生きるアサリを措いた作品などは、「何を」というテーマを離れても絵画として十分に魅力的だ。というより作者は、「どう描くか」を純粋に問う方向に臍み出しっつあるのではないか。そう強く思わせるのが、「風神雷神図」(13年)だ=同下。
 宗達画を元にしている点では従来の流れにあるが、その描写は、名画の「空間」や「感情」を福田なりの感度でどう受け止め、絵画としてどう表現するかに集中しているように映る。この純度の高い試みから、フランシス・ベーコンを思わせるねじれた身体と、脱構築的で流動感ある絵画空間が生まれている。
 作者の今後の方向性を考える上で、大切な作品になるに違いない。そんな予感すら抱かせる一枚だ。(編集委員・大西若人)
 ▽29日まで、東京・上野公園の東京都美術館。9、17、24日休み。