2013年3月25日月曜日

春、桜が早すぎる

こんにちは!美術学科のオオタです。


春休みも終わりに近づき…もうそろそろ入学式を控える時期になりました。
入学式といえば桜のイメージですが、今年は開花が早いですね
 ニュースで上野あたりで花見客が楽しげに映っております。


上野で花見と一緒にいかがでしょうか↓

『VOCA展2013 現代美術の展望-新しい平面の作家たち」
若い現代作家のアート展です。

上野の森美術館
3月15日(金)~30日(土) 10:00~18:00
http://www.ueno-mori.org/voca/2013/

 








2013年3月16日土曜日

知の世界笑って揺らした(312asahi)

山口昌男さんを悼む     中沢新一(人類学者)

 私たちの世代にとって、山口昌男はじつに偉大な解放者だった。1970年代、世の中ではきまじめであることが美徳とされ、自分のしていることは正しいと誰もが思いたがってい
た。その時代に山口昌男は知識人たちに向かって、そんなつまらない美徳は捨てて、創造的な「いたずら者」になれ、と呼びかけたのである。
 その呼びかけは、硬直した左翼思想にうんざりしていた多くの若者の心に確実に届き、「いたずら者」のイメージ(それを山口昌男はしゃれて「トリックスター」と呼んだ)は、たちまち知的世界の流行になった。文化人類学という戦後にアメリカから輸入された
新しい学問までがその影響を受けて、哲学にかわって知的世界の前線を開く、ずいぶんとかっこうのよい流行の学問になった。
 山口昌男の大胆不敵な行動力には、もっと驚かされた。北海道生まれの彼は、土地の呪縛からも十分に解放されていて、アフリカでもメラネシアでもヨーロッパの片田舎でも、世界中どこへでも平気で出かけていき、土地の人たちとも世界の知的巨人たちとも、まったく物怖じすることなく、対等に渡り合うことができた。
 相手がレヴィ=ストロースだろうがロマン・ヤコブソンだろうが、あの恐ろしい発音でまくしたてる英語やフランス語で、堂々と対話や論戦を申し込んだ。すると知の世界の巨人たちは、その自信たっぷりの勢いに気おされてか、青んで胸襟を開いたのだった。こ
の点でおよそ日本人ばなれしていた山口昌男の辞書には、「コンプレックス」という言葉はなかった。
 とにかくよく笑う人だった。とりわけアカデミズムの権威などを前にすると、ますますよく笑い、からかい、そのために相手を怒らせることもしばしばだった。笑う山口昌男のまわりで、世界はいつもダイナミックに揺れていた。
 世の中が安直な笑いであふれかえり、矮小化された「いたずら者」が跋扈する時代になると、さすがのこの人も不調に陥った。ところがしばらくすると、今度は「敗者」に身をやつして再登場したのにはたまげた。負け組のほうが豊かな人生が送れるぞ。マネーや力の世界への幻想を嗤う、なんともエレガントな闘いぶりであった。
 こんなわけで、山口昌男は私にとって、まさに一人のモーツァルトであったのだ。「サリエリにはなるなよ」との師の遺訓にしたがって、私は青空のような素直さをもって、この知のモーツァルトの人生の航跡を誉め讃えようと思う。山口さん、またどこかでお会い
しよう。

小説は死者と生者つなぐ(311asahi)

 東日本大震災から2年を迎えるこの春、死者とともに歩む2冊の本が刊行された。池澤夏樹氏の『双頭の船』は、被災地を旅する船が復奥の衝へと変身する軌跡を描く。いとうせいこう氏の『想像ラジオ』は、生者にも死者にも声を届けるディスクジョッキーの物語。1万5千人以上が亡くなった事実をどう受け止めるのか。考え続ける作家が対談した。
 池澤 被災地には何回も通っているが、行くたびに、人がいる気配を感じる。建物がなくなった後のコンクリートの土台がお墓に見えて、墓参のような気持ちになる。原発や町の再建問題もあるが、ずっと考えているテーマは死んだ人たちのこと。
 いとう 被災地を車で走っていた時、晴闇の中からざわざわと声が聞こえると思った。それを聞き取らないとダメだと思った。僕は16年間小説が書けなかったが、震災チャリティーで短編を数本書いた後、あの声を書かなければ二度と書けないと思い、『想像ラジオ』を書き始めた。震災関連の労作は多いが、死者と生者をつなぐフィクションがなくて、今回、池澤さんの『双頭の船』を読んで、向こう側とこちら側とに通路があり、そこ
に風が吹けば、死者と生者をつなぐ何かが生まれると感じた。
 池澤 以前から、唐突に死んでしまった人は自分の死をどう納得するのかが気になっていた。.準備ができていない死、不慮の死をどう受け入れるか。宗教を持たない僕らの大半は、向こうへの渡り方、見送り方、悼み方を持っていない。そのことをずっと考えていたところへ震災が来た。
 いとう 日本には、非業の死を遂げた人の霊をしずめるための能や歌舞伎や浄瑠璃があった。死者の恨みをどう共有するのかという意味で、芸能や文学が人の魂にふれてきたと思う。今、科学も宗教も生と死をとらえきれない。だから、その中間領域に小説を置かないといけないと思った。
 池澤 医学は科学だから「ご臨終です」で、終わる。でも、そこから始まるものがある。死を納得するための工夫が要る。僕は、震災で母親を亡くした友人から、どうやって亡きがらを見つけ、どう弔ったかを丁寧に聞いた。彼は語ることで自分の申の何かを鎮めた。僕は体験の一部を受け取ることで何かを担った。
 いとう 「双頭の船」というのは、頭の一方が死の世界に向かっていて、もう一方が生の世界へ向いていると思う。死の海が生の舶先に接し、生の海は死に接し、死と生が行き来する動力でこの船は進む。そして、船を縦にすると時間軸になる。下は過去でみんな死んでいる。上は未来ご」れから生まれる未来の人は、今はまだ死んでいるともいえるわけで、過去と未来は死でつながっている。
 『想像ラジオ』の主人公はディスクジョッキーだが、最後の方で次のDJが出てくる。つながっていく。未来と過去はこうして扱わなければいけないのかなと。
 池澤 被災地の初期のざわざわが鎮まるための2年だった気がする。三回忌というのは、死者が向こうへ歩き始める時期なのではないか。
 いとう 僕の場合は死者が話しかけてくるまでに2年かかった感覚です。向こうから「聞
け」と言ってくる声を想像で書くには、客観性と批評性が必要で、それは小説だった。
 池澤 政府発表や大メディアのメッセージ、「大災害」や「きずな」といった言葉が空回りすることに危険を感じていた。それを切り崩すには一人一人の声にもどらなくてはならない。つかみきれないものをつかもうと、もがいてもいた。
 いとう 一人一人を書くということは悼むことかもしれないし、何かにふたをしようとするものへの反抗かもしれない。池澤さんは『双頭の船』を故意に軽いタッチで描かれましたね。僕のDJもちゃらちゃらとしゃべる。客観性があればそこにユーモアが出てくる。死者もニヤっと笑うエピソードを書きたかった。
 池澤 深刻にしてしまうと、深刻であることだけで先に行けなくなる。
 いとう 当事者ではないのに深刻になるのは失礼ではないか、という思いもあった。
 池澤 葬式などの儀式だと、きちんとやったからいいでしょと納得させられて終わる。小説では、向こうへ行こうとしている彼らとともに歩ける。どこかでじ.やあねといってすっと別れられる。余韻が残る。
 いとう 音楽や映像ではなく、文字という簡素な、濁る意味貧しいメディアであるが故
に、生きる時間とも弔いともリンクがはれる。本という形だからこそ、開くたびに、亡くなった人の声や無念が立ち上がってくることを祈ります。
            (構成 吉村一彰)

芸術は悼み記憶する 震災2年(227asahi-306asahi)

 東日本大震災や原発事故は、美術などの視覚表現にも大きな影響を与えた。一方で、表現を受け止める側にも変化が現れ、作品を通して震災や侍代を見据える動きもある。さらに、紡がれる言葉。いくつかの事例から、「票災2年」を考える。

自然と人問に視点茨城・近代美術館
 茨城県近代美術館(水戸市)で開催中の「二年後。自然と芸術、そしてレクイエム」 (3月20日まで)に並ぶ50点を、一言で切り取るのは難しいかもしれない。東日本大震災を起点としつつも「横山大観の「生々流転」をはじめ物故作家の作品や、災害と直接関わりのない現代の作品も含むからだ。
 同美術館が応急復旧を終え、再開したのは震災から約1カ月半後。無料とした10日間で、通常の約5倍の5千人が訪れたという。市川政憲館長は「外の世界と違う緩やかな時間が流れる場所で、作品の前に立ち止まり考える。過去の上に立ち前を向く、という姿勢を回復しにきたのではないでしょうか」と振り返る。
 この展覧会は、そうした実感の延長線上に幾つかの視点を提示し、見る者の心の奥深
くを挿さぶる。一つは、自然と人間の関係。「生々流転」では、大気中の水蒸気が川となり海へ注ぎ、竜となって天に昇る「水の一生」が描かれる。私たちが目にする「自然」が、その一部でしかないこと。そして、その巡る営みに思いを致させる。
一方、韓国・珍島で、潮の干満の影響により海から現れた道を歩く観光客を写した、櫓
橋朝子の「Jindo.2009」。時に水面に見え隠れする人々の姿は、人知の及ばぬ現象と人間とが隣り合うことへの、恐れを呼び覚ます。
 もう一つは悼む心。「千の種族B」は、作者の井上直が25年連れ添った夫を失った直
後、毎日のように眺めた夕焼け、「原風景」なのだという。川辺にばつり、ぽつりとたたずむ人の姿に、大切な人を失う悲しみを抱えて、太古より生きてきた人間の歴史を
思う。
 そして、記憶。米田知子は「震災から10年」のシリーズで、阪神大震災から9年を経
た神戸の街並みを写す。キャプションがなければ、その場と震災との関係は一見分から
ない。それは「復興」という目に見える姿の裏に、傷や悲しみは消えずにとどまってい
ることを示すようでもある。
 ほかに、東日本大震災後の新聞を1カ月分ずつ束ねた河口龍夫の連作や、「東日本大
震災追悼」と記すエミコ・サワラギ・ギルバートの鉛筆画など、作家たちの葛藤を示す
作品も並ぶ。
 記録映像や証言とは別の方法で、あの震災を心に刻む−−。「記憶」を作品という形
とすることで、可能になることもまた、あるのだろうと思わせる。
 現在を「震災後」ではなく、いつまた誰が災害に遭うかもしれない「災間」と位置
付ける、この展覧会。3・11以来、「東北」から隔たった地にいた人も「あの日」と向
き合い、それぞれにとっての意味を考える場が必要だと、静かにささやきかける。
       (増田愛子)













アートとは 考える契機に

 東日本大震災から間もなく2年、アートを巡り、厳しく、あるいは内省的な言葉が語られている。1月下旬に仙台市で開かれた、宮城県や東京都主催の「なんのためのアート」と、全国アートNPOフォーラムの中で開かれた「震災後にみえてきたアート/アーティストの存在」でも、そんな言葉が聞かれた。
            
 水戸芸術館の竹久侑・学芸員は、双方で発言。被災地で行われたアート活動を記録・展示した同館の「3・11とアーティスト 進行形の記録」展の企画者だ。
 「作家たちは自分が被災地でやったことが作品なのか言い切れなかった。でも美術館で紹介すると作品に見えるし、お客さんたちも作品と考える。アートとは何かを考える契機になった」と話した。
 厳しい言葉を発したのは「震災後」に参加した、宮城県気仙沼市のリアス・アーク美術館の山内宏泰・学芸員。自身も、被災者だ。「被災地に、『アートです』と入
ってきて活動し、『楽しいでしょ』 『心が晴れるでしょ』と毎日言われ、飽き飽きしていた。悪意はないだろうし感謝もするが、やはりズレがある」と指摘した。一方で、地獄絵のような中で、ある美しさを感じたことを明らかにした。「路地が冠水した鏡のような水面に建物が映り込む様は、すごくきれい。心が少し解放され、幸せを感じた」
 「なんのためのアート」で掘り下げた発言をしたのが、岩手県陸前高田市出身で、津波により母親と実家を失った写真家の畠山直哉だった。「頼まれたわけではなく、ただ誰かに動かされていたように、被災した故郷を撮り続けた」と話し、アーティストとは、この名状しがたい誰かと私たちの関係を築く人ではないか、という考えを示した。
 アートとは何なのか、誰のためなのか。これからも問いが続いて
ゆくに違いない。 (大西若人)

2013年3月4日月曜日

第69回学校展終了!

こんにちは 美術学科担当のオオタです。

学校展終了しました。

ライブペイントも完成しました。

描かれている人物は校内にいたりします。
体験入学などに参加してぜひ探してみてください~




2013年3月2日土曜日

第69回学校展

こんにちは美術学科担当の太田です。

金曜日から日曜の3日間、学校展が開催中です。

美術学科のスペースは展示のみならず、ライブペイントもおこなっています。
リクエストされたものを描きます。











ぜひぜひお立ち寄り下さい!!