2013年1月30日水曜日

鬼気迫る囚人たちの演技(125asahi)

塀の中のジュリアス・シーザー

シエイクスピアの戯曲「ジュリアス・シーザー」が上演されている。場所はローマ郊外、レビッビア珊務所内。演じるのは囚人たちだ。毎年一回、一般観客に、彼らの芝居を披露する催しがあるという。この話を聞いて、タビアーニ兄弟、パオロとビットリオは映画化を思い立つ。一見なんの衒いもない、シンプルな作りに見える。結論から言おう。巨匠ふたりの傑作のひとつとなった。
 オーディションが始まる。囚人の罪は様々。終身刑の男もいる。カメラは堅固な二重扉の独房に入り込み、アップで男を捉える。役と自分の間に葛藤が起こり、次第に、シーザーが、ブルータスが形作られる。限られた空間はローマ帝国へと変貌し、名君は権力の座に登って独裁者となり、側近は国を憂えて、遂に暗殺が決行される。
「ブルータス、お前もか」
 服役囚が演じる芝居なんて辛気臭いなどと思えば大間違い。役にのめり込み、男たちは自分を叩きつける。シーザーを演じることで風格が増し、ブルータスは盟友に対する裏切りに懊悩する。若き皇帝オクタピアス役に新入りが抜擢される。そこに立つだけで、匂い立ち、身震いするような存在感だ。
 裏切りも、殺しも、絵空事ではない。彼らが現実に犯したこと。生きたこと。否応なしに対峙させられる己が過去。相方の役柄に、その男自身の根性を看破する鋭い勘も昔のまま。押し殺していた内面の叫び、もう一度、自由になりたい願望が俄然一体となり、なまなましくも、普遍の人間が生まれる。
 男たちの情熱と気迫に、カメラは一瞬の姿をしかと記憶し、白黒の画面は、時折、かすかな色彩を添える。抑制された音楽は実に繊細。俳優を志す人には必見の一作であろう。
   (秦早穂子・映画評論家)26日から各地で順次公開。

良識のうしろ側(123asahi)

 多くの人がうすうす感じているのに、周囲の空気を読んで口にしないー。同調圧力、あるいはタブー。そんな存在を扱う個展を、高嶺格(44)が水戸芸術館で、会田誠(47)が東京・森美術館で開いている。
ガマンガマンガマン・・・

 「わらってね みんながいるよ大じょうぶ」 「あいさつは 声と声との 握手だよ」。ロダンから想を得た男性の彫像の周りでそんな標語が電光掲示で次々に流れてゆく。「標語の部屋」と題された展示だ。
 次の「ガマンの部屋」には人物彫刻3体が置かれ、男女の声で「ガマンしなさい」と繰り返し響く。さらに「自由な発言の部屋」に移るとネット上で流布する口汚い言葉の数々が、薄暗い部屋に浮かび上がる。
 「高嶺格のクールジャパン」展(2月17日まで)ではこうした展示と出あう。高嶺は過去にも障害者の性といった事象を扱ってきたが、今回は原発事故後の社会が契機に。「魚の放射線量が気になり水族館に尋ねたら、危険分子のように肇成された。原発の話をしにくい場もある」。そんな空気やタブーが「なぜ生まれたのかを考えたかった」。
 興味深いのは、人間の死など、多く議論されることではなく、震災時に日本人の美徳としても寮られたガマンや、標語といった「好ましいこと」 「良識」を扱ったこと。これで説得力も増した。「標語なんて意味のない行為が続けられていることに違和感があった」。こうした存在も、現在のタブーや慣習の背景になっているというわけだ。
純粋さの利用暴く

 展覧会名のクールジャパンは、アニメやマンガが象徴する「かっこいい日本」を意味する。「こんな状況で『クールジャパン』が唱えられることにいびつなものを感じたから」
一方、「会田誠展 天才でごめんなさい」 (3月31日まで)は大回顧展で、美少女愛やナンセンスに満ちた表現など、惜は広い。その中にやはり、お年寄りのゲートボールや
「一日一善」といった「好ましいこと」の裏側を探る作品がある。
 美術家になった作者が、かつて措かされた道徳的なポスターを、子供らしい画風にひねりを加えて措いた連作もその一つ。子供の純粋さを大人が利用する構図を暴いた。「偽善
的かなと思うことが一般の人より多いのかもしれない」と会田。今回、銀地にカラスを措いた新作を展示。長谷川等伯らを意識しにという精巧で堂々たる表現は−まさに「好ましい」ものだ。しかし子和に見れば、カラスは人の指や目をくわえている。歴史的な名作に触れる表現について会田は、「リスペクトのこともあれば、国宝のように神椅化されるものを俗な内容でおとしのたくなることもある」と話す。2人の美術家は、何を描き出そう
こしているのか。高嶺は「即応性に欠ける美術で、一歩引いた視点から『ジャパン』を
考えたかった」と話し、会田は(エロやグロも含め) 「現代という時代、日本という社会に呼応したもの智作るべきだと患う」と語る。会場ではきっと、美術の力で描き出された「うすうす感じていた日本の実像」と出あうに違いない。
      (編集委員・大西若人)

2013年1月17日木曜日

批判と創造飽くなき追求(116asahi)

倉石信乃 明治大教授(写真史)
戦後写真における東松照明

 絵画を描くように構成に腐心して「作る」写真は、つねに東松照明の仕事の半分を占めている。1950年代を通じて土門挙が主唱したリアリズム写真、すなわち貧困、不正、病理など、社会が抱える問題を表す題材を直接とらえようとする写真とは、当初から一線を画した。しかし、残りの半分にあるのは社会に対する批判精神であり、それを形にする方法を東松はリアリズム写真から学んだ。
 造形への配慮と社会問題への言及。この二つの要求を、高い次元で画面に統一すること。しかも個々の写真が、一方的なメッセージを作り上げるための手段に甘んじるのではなく、多義的な価値を備えた「群」であり続けること。60年前後に始まるその試みは、現実の忠実な反映という教えを墨守するリアリズム写真からも、モダニズム風の絵画的写真からも超脱した、現代写真の始まりを告げるものとして結実した。原爆の傷痕を刻む長崎、全国の米軍基地、そして失われた実家を題材とする三つの連作においてである。
 連作「家」は主に天草の家屋を撮影したもので、それを台風で流失した愛知県の実家の記憶に重ねた。東松は私的な喪失を、急速な経済成長や都市化と相まって進行し始めた「日本の家」の喪失へと結びつけた。ものの生々しい質感を受けとめる度量を頼りに、巨大な主題と切り結ぶ姿勢は、晩年まで続いた長崎の連作でも、沖縄での連作に受けつがれた「基地」の連作でも一貫する。
    
 東松の凄さば、そうした達成にとどまらない。むしろその達成を冷静に自己批判し続けたところにある。盟友・多木浩二が看破したように、兼松の写真には裸形の「もの」の側からのまなざしがある。それが、作者という立場への懐疑を彼自身にもたらした。
 広大な土地を米軍に接収されてなお、その文化的な特性を存分に保持する沖縄の島々に魅了され、72年の「返還」直後には宮古島にも移住した。他者との協働を重んじるシマは写真家に、近代的な自我に基づく表現意欲とは別の心構えを教えた。基地など、否定すべき熟しき対象を格好の良い映像に変えてしまう矛盾にも気づき、「これからは好きなものしか撮らぬ」と宣言したのもその頃だ。無名性への思慕もよく告白した。
 東松はその後も幾多の作品を残し、過去の自作の再編集に勤しんだ。そこには「表現」や「作者性」の限界を見すえて、無名の人やものの側からのまなざしに震えるしなやかな感性がある。それがおそらく我々がくりかえし汲み取るべき遺産の核心である。
     ◇
 写真家・東松照明氏は昨年12月14日に死去。82歳。

「この世界と わたしのどこか」展(116asahi)

遠くから、近づきながら

 この展覧会の英文名を訳すと「私とこの世界の間のどこか」となる。私と世界の間のどこに視点を置くのか、がテーマなのだろう。1970年代生まれの女性5人の写真表現にまず感じるのは、世界との「速さ」だ。
 端的なのが、笹岡啓子が撮る釣り人の姿。うんと遠くから人影をとらえ、点に近いものも。しかしその点景たる釣り人は、海面や足元の岩場、つまり地球や世界の表面を見つめている。それを遠くから見つめる作者。この入れ子構造に、慎重に世界を読もうとする気配が浮かぷ。
 田口和奈の作品は白黒の女性のアップ。なのに遺さを感じるのは暗く焦点があいまいだからだろう。さらに、雑誌に載った女性の写真をリアルに措き、それを再度写真に撮るという敵患な手法がにじみ出るからか。
 大塚千野の連作は母と娘の写真に見えるが、実は子供時代の自身の写真に、現在の要を滑り込ませた合成なのだ(写真上は「1976and2005、一Kamakura、Japan」、05年)。現在の自己と世界を確認するのに、時間的な速さを使っているのか。そして蔵真墨のスナップ写真も対象と距離をとっている。
 この感覚は、別の階で同時開催中の「記録は可能か。」展の一部にも見てとれる。小川紳介が三重塚闘争を撮った70年の映像の隣で流れる、ドイツのニナ・フィッシャー&マロアン・エル・ザニの映像作品「成田フィールド・トリップ」 (10年)。東京から成田空港周辺にやってきたカップルが闘争の歴史を知るのだが、その淡々とした日常に小川の闘争への肉薄ぶりとは対照的な距離感が浮上する。
 「この世界」廣が示すのは、不安と不安定が定着したような現代に対し、強烈な変革や過去の輝きの回復を求めることでは・なく、遠くからみつめながら距離を締めてゆく価値だろう。
「速さの力」といってもいい。 言論を巡って何かと話題の多い中国を生きる、もとの姿は男性でも心は女性の人々を追う菊地智子の写真が示唆に富む。数年前までは社会から遠ざけられていた彼女たちが、今や人目につく場所で化粧している(同下は「農家で化粧をするパンドラとララ、四川省」、11年)。
 速さの力で、世界は少しずつ変わってきているのだ、たぶん。(編集委貞・大西若人)
 ▽27日まで、東京都写真美術館。月曜休館。

2013年1月13日日曜日

アルバート氏の人生(0111asahi)

弱者の孤独と闇に迫る

 19世紀、アイルランド。不安定な政情も相まって、首都ダブリンは、飢餓と失業に苦しむ人たちで蹴れている。
 アルバートトノッブスは中心街のホテルで働く住み込みの給仕。礼服に身を包み、寡黙で、喜怒哀楽をまったく表さず、儲かばかりのチップを帳面に付け込んでは、床下に貯めこむ。ある日、彼は大男のペンキ屋に秘密を握られた。アルバートは女であった。
 この男、いや女に挑戦するのはアメリカの大物女優グレン・クローズ。ジョージ・ムーアの原作を舞台で演じて30年、映画化の実現に努力し、製作・脚本面でも協力した。一瞬際物かと思うが、社会的問題を背景に、女の本性に切り込んでいく。
 上流階級の不倫の子は、自分の本名も知らず、生まれてすぐ里子に出された。養母の死後、施設へ送られ性的暴行を受ける。男装して身を守る以外、生きる術なく、頼りは金だけだった。
 ペンキ屋夫婦にも世を忍ぶ隠れ蓑があり、それに触発されたか、アルバートは同じホテルのメードとの結婚を夢見た。女の情夫はアルバートの金を狙う。
 偽装しても生きると決意した女同士は寄り添うもの。だが、アルバートは女からも敬遠される。男装が習い性に成ったとはいえ、男ではない。そして最早女には戻れぬ。監督ロドリゴ・ガルシアは抑えた手法で、存在証明なき人間の心の闇に迫る。限りなく孤独で、哀しみを仮面の下に押し隠し、疎外されながらも、自分の居場所を探すひとりの女に、なぜ、グレン・クローズは執着してきたか? なかなかに芯のある女優といえよう。フェミニズムか同性愛かなどと論じる前に、底辺に渦巻くのは弱者の必死のあがきと諦め。主題はあくまで孤独と貧しさにあり、心突き刺す一作だ。(秦早穂子・映画評論家)
 18日から各地で順次公開。

2013年1月10日木曜日

展覧会のお知らせ

2013年1/15(火)~2/1(金)
11:00~19:00 土曜・日曜・祭日は休廊

千駄ケ谷 ギャラリーエフ
03-3475-4878

http://www.tokyo-ef.com/
美術学科主任の建石修志が参加しているコラボレーション展

希望はローテク(109asahi)

メルロポンティの思想を手がかりに

 「農業や林業のおじいさん、おじさんが夕方から集まって稽古する。その舞がすご
い。暮らしに根ざした身体を持つ人々の踊りが、第一線のダンサーを超えている」
 ダンサー・振付家の黒田育世(36)は昨年12月、宮崎県西都市の山あいの集落に1週間
通った。地元に数百年伝わる「銀鏡神楽」を見学するためだ。祭壇にイノシシの頭を供
え、ほぼ1日がかりで神に奉納する。古式を守り、観光化からも距離を置く「門外不
出」の神楽として知られる。
 黒田は女性ダンサー10人の集団「BAT工K」を主宰。20代で数々の質を受け、野田
秀樹の新作劇「エッグ」の振り付けも辛がけた。身体を極限まで酷使して踊り、叫び、衝
動や感情をむきだしにする。昨年、3時間の大作「おたる鳥をよぶ準備」を上演した。
 テレビは持たない。フェイスブックやツイッターも「やっていない」。シンプルに
「踊り暮らしている」黒田が東京から銀鏡を訪ねたのは、踊りの持つ原初の力とは何
か、考えたかったからだ。
 「毎年同じ舞を繰り返し、一生かけて次世代に伝える。共同体の中の踊りの浸透度が
強い。昔のままで麟みとどまり、生き抜く力を銀鏡神楽に見つけた」
 大自然にわが身をさらけ出し、人間の可能性を問う人もいる。探検家・ノンフィクション作家の角幡唯介(36)は新年をカナダ北極圏で迎えた。太陽が出ない極夜の星々を六分儀で測って位置を割り出し、約530キロの徒歩単独行に挑んでいる。全地球測位システム(GPS)や衛星携帯電話はあえて持たない。
 出発直前に旅の狙いを問うと、角幡はこう答えた。
 「自然が持つ本来の凶暴性を体感し、どうやって身体を自然に深く潜り込ませるか。
携帯やGPSはそれを阻害する要因になる。当然怖くて不安だが、一方で旅の喜びも増
すと思う」。便利すぎる日常への疑念が、昔ながらの探検へ駆り立てる。「創意工夫す
る過程と時間が消失してしまったら、人間は一体どこに存在すればいいのだろう」
便利さ遮断し見えてくる
 昨夏のロンドン五輪を前に引退した「常勝メダリスト」がいる。埼玉県音士見市で町
工場を営む辻谷政久(79)。.辻谷の作る砲丸はアトランタ、シドニー、アテネの五輪3大
会連続で男子砲丸投げの金銀銅メダルを独占した。
 約10キロの鋳物の球から7.26キロの砲丸を望程かけて汎用旋盤で削り出す。13歳から
父の工場で働き、数十年かけて体にしみこませた「職人の勘」が頼りだ。ハンドルにか
かる圧力、刃が球を削る音、表面の光の変化を見分け、重心が完全に中心にくるよう仕
上げる。ローテクから生まれたハイテク製品だ。
 コンピューター制御のNC旋盤で試作したこともあるが、7割が不良品になった。
 北京五輪には提供せず、ロンドンでの復帰を求められたが、「日本製の借用を保つに
は、次のリオでも勝てないと意味がない。年齢的に無理だ」と信念を貫いた。
 数年間寝たきりという不便な身休条件を知覚の深化に転じ、芸術活動へと昇華させた
のは明治時代の正岡子規だ。「写生」を説き、俳句や短歌、散文の革新を進めた。
 思想家・文化人類学者の中沢新一(62)は、かつて子規の言う「客観」を「過激なコン
セプト」 「心とモノがひとつになって流通流動しあっている存在の次元」と評した。
 「健康に動くことと日常言語をしゃべること。この二つで人間は岡りの自然から受け
る情報の大半を無意識に捨象してしまう。動けないまま凝視を続けることで、子規は小さな庭が豊穣な自然に満ちていると気づいた。言葉を最小限に切り帯めてそれを表現し、日常感覚では見えないものを取り出すことに成功した」
 では普通の人間はどうしたら、そんな根源的な発想に近づけるのか。
 「切断の技術を持つことです」と中沢は提唱する。
 「ネット社会も世界金融もコネクショニズムの世界。現代はつながることが善であり、強力なイデオロギーになっている。でも、人間が作った情報しか行き交わない空間
はトートロジー(同義反復)の世界ともいえる。遮断し、思索しないと新しい概念はつ
くれない。子規は小さな庭に理想型を見たのでしょう」
 世界の感触を全身で受けとめてこそ、新しい可能性が見えてくる。=敬称略(藤谷浩二)
体の複雑さ踏まえ実相に迫る
 私たちは身体を持つことでしか世界に存在できないし、そこで起こることを知ることはできない。では身体とは何だろうか?
 身体性を重視したフランスの哲学者モーリス・メルロボンティは身体を、「精神と物体」 「主体と客体」といった二元論を超えた「両義性」を持つものとしてとらえた。そしてその先に、私と他者、私と自然や社会との緊密な相互関係をも見つめた。『知
覚の現象学』では、身体を「世界の中へのわれわれの投錨(いかりを下ろすこと)」と表現する。
 メルロボンティの言う身体は、物理的な体をこえた広がりを持つ。杖を持つ手元でなく杖の先で知覚するように、道具を使うことで→身体」は伸び縮みする。また、私の身体と他者の身休、あるいは周囲の世界とはお互いに「含みあう」関係にある。.そうした身休の複雑なありようを踏まえた知覚に関する綿密な記述は、世界を見つめ直す道しるべになる。
 取材したのは身体にこだわる人ばかり。身体を通して物事の実相に迫ろうという欲望は、「哲学とは己自身の端緒のつねに更新されてゆく経験である」という哲学者の言葉と呼応していた。

今、なぜ草間彌生か

建畠哲・京都市立芸術大学長が読む

自我超えた救済の祈り、共感の源今年はクサマ・イヤーとして記憶されるだろう。それぼど草間彌生への関心が国内外で高まった年だった。1950年代から活動を続ける前衛美術家がなぜ、いま脚光を浴びているのか。国内を巡回市立芸術大学長に読み解いてもらった。
 国内でもてはやされる美術家は次々に現れるが、そのことが国際的な名声と結び付い
ている例はきわめてまれ、というかほとんど草間彌生一人ではないだろうか。昨年から
今秋にかけてボンピドー・センター(パリ)やテート・モダン(ロンドン)などの欧米
の名門美術館で彼女の回顧展が開催され、国内でも大規模な近作展が巡回中だ。なかで
も国立国際美術館(大阪)では、22万人という現役の美術展としては空前の入場者数を
記録しているのだ。
 敢然たる異端者
 そんな成功は世俗の話であって、芸術の本質とは関係ないという声も聞こえてきそう
だが、実のところ、草間蒲生は久しくスキャンダラスな異端という誤解にまみれたまま
におかれていたのである。今年で83歳になった彼女の長年にわたる孤独な闘いの軌跡
が、ようやくにして広く認められるようになったという事実を、彼女の再評価に関わっ
てきたキュレーターの一人として素直に喜びたいと思う。
 それにしても、なぜ、今、草間彌生なのか。天才の仕事は時代の先を行き、理解は遅
れて訪れるとは、よくいわれることではある。だがテレビ局がゴールデンアワーの番組
を組み、世界各都市のルイ・ヴィトンの店舗を草間のトレードマークの水玉模様が埋め
尽くすといった状況は、遅れてきた称賛というよりは、むしろ美術の領域を超えたブー
ムの様相を呈しているのだ。
強迫が開く対話

 あえて逆説的にいうならば、草間が社会的にメジャーな存在になりえたのは、アウ
トサイダーであるからこそであろう。ただひたすらな反復という単調極まりない方法
が、絵画、彫刻、インスタレーションから映像にいたるまでの多彩なバリエーションを
もたらしている事実に私たちの目は大いに幻惑されるが、それも彼女ならではの空間を
同じパターンで埋め尽くさずにはいられないという特異な心理的オブセッション(強迫
観念)の産物であるからに違いない。そのような敢然たるアウトサイダーとしての姿
が、(ナンバーワンではなく)それぞれがオンリーワンであればいいという時代のカリス
マ的な存在として、改めて脚光を浴びているのである。
 しかしブームの背後には、より本質的な、もう一つの理由が潜んでいるように思われ
る。同じパターンを無限に反復させる彼女の絵筆は、特殊な精神的病理に駆り立てられ
たものであるがゆえに、一種霊的でもあり宇宙的でもあるイメージをもたらしてもい
る。オブセッシブな情動が、個人的に閉ざされるのではなく、逆に見る者の想像力を触
発する豊かなコミュニケーションの可能性を開いているといってもよい。彼女の作品が、
近代的な意味での自我の表現などというものを超えた、より普遍的な喚起力をもつ世界
として多くの人を魅し、共感を誘わずにはおかないのは、おそらくはそのためなのだ。
 「愛はとこしえ」とは近作のシリーズのタイトルである。そう、草間彌生ならでは
の「愛の源泉」は、心理的な抑圧からの解放の願いが、自己と世界との同時的な救済の
祈りへと昇華しえているところにあるに違いない。地域を超え、世代を超えて親しまれ
る“みんなのアバンギャルド”この年齢にしてなお童女のようなあどけなさを失うこ
とのない不思議なヒロイン。やはり草間は他に類例のないアーティストなのである。
     
 「草間彌生 永遠の永遠の永遠」展は24日まで、新潟市美術館で開催中。その後、静
岡、大分、高知を巡回予定。

中西夏之展(1121asahi)   作者目線 新鮮な空間

見やすく、分かりやすく。展覧会は、ふつう鑑賞者の立場で構成される。だが、戦後日本の現代美術に確かな足跡を残す中西夏之(77)の今回の個展で、異なる立場があることを知った。

 中西は前衛美術集団ハイレッド・センターの一貝として1960年代に見せたパフォーマン
スや立体でも知られる。だが今回は絵画に焦点を絞り、50年代末から60年代の連作と、最新の連作を中心に成り立っている。
 第1室の大半を、59~63年の「韻」の連作が占める。砂をまぜた絵肌に、白抜きされたT字形がわずかな間隔を空けて連なり、ファスナーにも背骨の化石にも見える=写真上(「韻'60」 千葉市美術館蔵)。密集ぶりが時代のエネルギーを感じさせつつ、一方で地上絵や何かの痕跡のようにどこか実体を欠く。線で画面を区切ることへの違和感から選ばれた手法というが、それゆえの隙間のある連鎖と、虚構性なのだろうか。
 第2室になると印象が一変。金属製の洗濯ばさみが画面にとりついたシリーズを従え、空間を支配するのは2009年以降の大作絵画の群れだ。白と紫を基調に斑点や編み目のような姿が光に満ちて描かれる。形が確定されず、分化前の万能細胞や解釈される前の網膜上の映像とはかくや、と連想させる。
 見る身が包まれる大画面が十数枚、壁はもとより、展示室に配された数台の画架の上に衝立のように置かれて、こちら向きに連なる=同下。画架の作品が床から十数センチに位置することも手伝い、浮遊感はこの上ない。一方、壁に近づけば、衝立状の作品の裏側が見える。画面表を見せる展示は、極めて珍しい。
 実は中西は、長い柄に筆を取り付けて描く。ならばこの展示は作者の立ち位置から考えられたものではないか。展示室の中央に立って長い筆で壁や画架の作品を描く姿が夢想される。いわば巨大なアトリエなのだ。
 絵画特有の正面性や垂直性を衝立状の作品で際だたせる展示は、制作者の位置という新しい視点を示す。半世紀前の作品に表れた記号の連なりは、絵画と絵画の連なりとなり、ある種の未完の感覚は継続されつつ展開される。絵画の可能性を探ってきた作者の立ち位置ゆえに、展示は創造の瞬間の新鮮さを備えている。 (編集委員・大西若人)
 ▽来年1月14日まで、千葉県佐倉市坂戸のDIC川村記念美術館。祝日を除く月曜と、12月
25日~1月1日休館。

着彩の歩みと彫刻の今(1114asahi)

 近代以降の彫刻は、ロダンを筆頭に、ブロンズのイメージが強い。しかし一方で、色を施した彫刻も作られ続けてきた。群馬県立館林美術館の「色めく彫刻」展は、その歩みと現状をさぐる内容となっている(12月2日まで)。

 第1室に多く並ぶのは、同館所蔵のフランソワ・ボンボンをはじめとするブロンズの動物や人物の姿だ。黒や深緑、茶色っばいものも加わり、なかなか多彩。神尾玲子・学芸員は「近代以降の流れを見せつつ、彫刻の楽しさに触れてほしい」と企画意図を語る。
 第2室になると、一気にカラフル。近代日本の試みが多数紹介される。安藤緑山は本物と見まがうほどの貝の数々を象牙から彫りだし色をつけている。平櫛田中をはじめとする色鮮やかな木彫の人物像の数々の一方で、新海竹太郎のように女性像に煙るような色彩を
ほどこした作例もある。
 最後に現代の作家たち。前原冬樹は、超絶技巧で茶から空き缶や鍵を彫りだし、油絵の具で本物そっくりに着彩。一方、保井智血員は、乾漆による若小汝性の彫刻に岩絵の具や煉細も使って色と装飾をぼどこしている。伝統的な彫刻や工芸の手法を使いつつ、現代風俗を浮上させている。
 神尾学芸員は「西洋の彫刻はボリュームを重く考える傾向があるが、仏像などの木彫が続いてきた日本では、現代でも木彫に彩色という流れが注目を集めている」と話した。(大西若人)群馬県立館林美術館