2013年1月30日水曜日

鬼気迫る囚人たちの演技(125asahi)

塀の中のジュリアス・シーザー

シエイクスピアの戯曲「ジュリアス・シーザー」が上演されている。場所はローマ郊外、レビッビア珊務所内。演じるのは囚人たちだ。毎年一回、一般観客に、彼らの芝居を披露する催しがあるという。この話を聞いて、タビアーニ兄弟、パオロとビットリオは映画化を思い立つ。一見なんの衒いもない、シンプルな作りに見える。結論から言おう。巨匠ふたりの傑作のひとつとなった。
 オーディションが始まる。囚人の罪は様々。終身刑の男もいる。カメラは堅固な二重扉の独房に入り込み、アップで男を捉える。役と自分の間に葛藤が起こり、次第に、シーザーが、ブルータスが形作られる。限られた空間はローマ帝国へと変貌し、名君は権力の座に登って独裁者となり、側近は国を憂えて、遂に暗殺が決行される。
「ブルータス、お前もか」
 服役囚が演じる芝居なんて辛気臭いなどと思えば大間違い。役にのめり込み、男たちは自分を叩きつける。シーザーを演じることで風格が増し、ブルータスは盟友に対する裏切りに懊悩する。若き皇帝オクタピアス役に新入りが抜擢される。そこに立つだけで、匂い立ち、身震いするような存在感だ。
 裏切りも、殺しも、絵空事ではない。彼らが現実に犯したこと。生きたこと。否応なしに対峙させられる己が過去。相方の役柄に、その男自身の根性を看破する鋭い勘も昔のまま。押し殺していた内面の叫び、もう一度、自由になりたい願望が俄然一体となり、なまなましくも、普遍の人間が生まれる。
 男たちの情熱と気迫に、カメラは一瞬の姿をしかと記憶し、白黒の画面は、時折、かすかな色彩を添える。抑制された音楽は実に繊細。俳優を志す人には必見の一作であろう。
   (秦早穂子・映画評論家)26日から各地で順次公開。

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