2013年1月17日木曜日

批判と創造飽くなき追求(116asahi)

倉石信乃 明治大教授(写真史)
戦後写真における東松照明

 絵画を描くように構成に腐心して「作る」写真は、つねに東松照明の仕事の半分を占めている。1950年代を通じて土門挙が主唱したリアリズム写真、すなわち貧困、不正、病理など、社会が抱える問題を表す題材を直接とらえようとする写真とは、当初から一線を画した。しかし、残りの半分にあるのは社会に対する批判精神であり、それを形にする方法を東松はリアリズム写真から学んだ。
 造形への配慮と社会問題への言及。この二つの要求を、高い次元で画面に統一すること。しかも個々の写真が、一方的なメッセージを作り上げるための手段に甘んじるのではなく、多義的な価値を備えた「群」であり続けること。60年前後に始まるその試みは、現実の忠実な反映という教えを墨守するリアリズム写真からも、モダニズム風の絵画的写真からも超脱した、現代写真の始まりを告げるものとして結実した。原爆の傷痕を刻む長崎、全国の米軍基地、そして失われた実家を題材とする三つの連作においてである。
 連作「家」は主に天草の家屋を撮影したもので、それを台風で流失した愛知県の実家の記憶に重ねた。東松は私的な喪失を、急速な経済成長や都市化と相まって進行し始めた「日本の家」の喪失へと結びつけた。ものの生々しい質感を受けとめる度量を頼りに、巨大な主題と切り結ぶ姿勢は、晩年まで続いた長崎の連作でも、沖縄での連作に受けつがれた「基地」の連作でも一貫する。
    
 東松の凄さば、そうした達成にとどまらない。むしろその達成を冷静に自己批判し続けたところにある。盟友・多木浩二が看破したように、兼松の写真には裸形の「もの」の側からのまなざしがある。それが、作者という立場への懐疑を彼自身にもたらした。
 広大な土地を米軍に接収されてなお、その文化的な特性を存分に保持する沖縄の島々に魅了され、72年の「返還」直後には宮古島にも移住した。他者との協働を重んじるシマは写真家に、近代的な自我に基づく表現意欲とは別の心構えを教えた。基地など、否定すべき熟しき対象を格好の良い映像に変えてしまう矛盾にも気づき、「これからは好きなものしか撮らぬ」と宣言したのもその頃だ。無名性への思慕もよく告白した。
 東松はその後も幾多の作品を残し、過去の自作の再編集に勤しんだ。そこには「表現」や「作者性」の限界を見すえて、無名の人やものの側からのまなざしに震えるしなやかな感性がある。それがおそらく我々がくりかえし汲み取るべき遺産の核心である。
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 写真家・東松照明氏は昨年12月14日に死去。82歳。

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