2012年5月22日火曜日

美術学科 演習「磁力を巡る」第3弾!!!

GWも終え、美術学科の授業も本格的に動き出しています。
演習「磁力を巡る」も3つ目の課題に入っています。

少人数ながら、黙々と作業する美術学科。

義足を超える私の存在(522asahi)

若手発掘のアート展グランプリ・片山さん

誰のために、何のために表現するのか。若手アーティストの発掘・育成を目的に、
美術系大学の今年の卒業・修了制作展の中から選ばれた30作品が競う「アートアワー
 ドトーキョ一丸の内」の第6回展の審査は、こんな問いと向き合うことになった。

 同展は27日まで、東京・丸の内の行幸通り地下のウインドー状のギャラリーで開催中で、9人の事査貞により、グランプリには東京芸術大の修士課程を修了した片山真理さん(24)が選ばれた。
 衣装などの小物にあふれた部屋にたたずむ、どこか人形のような女性の写真2枚の事前に、布製のオブジェなどが並ぶ展示。審査の日には、片山さんはその前でパフォーマンスを披露。自身が装着する両足の義足を取り換える、というものだった。
 片山さんは生まれつき足が不自由で、9歳で両足を切断。写真に登場する女性は自分自身
で、写真の1枚は、失ったころの大きさの石膏製の足を付けた状態で画面に収まっている。
 講評では、高橋明也・三菱一号館美術館館長が「きわめて個人的な身体の事柄から」発した「方法論に圧倒される」と記した。
 片山さんは群馬県内の高校生だった時に、義足がテーマの作品を群馬青年ビエンナーレに出品。子供の頃からいじめにもあい、「ほかの人とは全く違うんだと示したかった」と振り返る。一方で「障害者」や「福祉」の枠で見られがちなことに違和感を覚えた。
 障害者の環境の地域格差などを知った今は、福祉関係の催しなどにも協力するが、作品は純粋に見てぼしいと思う。表現上も、何かを訴えたいという思いは小さくなった。祖父の死に触れ「命」を意識したことなどもあり、9歳のころの気持ちを振り返ったり、「自分の体をなぞり、思い出を残そうという気持ちが強くなった」と話す。
 その意味で、さまざまなモノや空間を画面に盛り込める写真は「物語」を紡ぎやすい。あとは、作品を見る人が自分に引きつけて色んな解釈をしてくれればいいと考えている。
 審査員の一人で、アワードの実行委貞でもある画廊経営者の小山登美夫さんも「障害のことなど問題にならないレベルで納得させる表現力」と、その完成度の高さと普遍性を認める。
 自分の体と密接な作品が多いという理由で、オブジェなど複製が 難しいものは売るつもりがないことも審査では意識されたようだ。
 天野太郎・横浜美術館主席学芸員は「商業的展開を考える若手が多い中で、市場とは無関係に自分の存在をストレートに示す表現は新鮮」と評するのだ。
 現在の主な収入源はコンピューターのプログラム作りとジャズの歌い手としての活動。今回の受賞を素直に喜びつつ、美術を生業とする予定はない。でも意識しなくても、針仕事をしたり、写真を撮ったりし続けると思うんです」
 そんな片山さんの作品と歩み方。今、表現することの意味を再考させる。
    (飼雑委員・大西若人)

終末論は終わらない(521asahi)

「世界の終わりのものがたり」という展覧会が、東京・お台場の日本科学未
 来館で開かれている(来月11日まで、火曜休み)。ものごとの終わりを意鼓さ
 せ、あやしく人を引き付けてきた終末論に、先端科学技術の博物館で出あうと
 は。書災をはさみ、終末をめぐる文化の風景は変わりつつある。

現実を前に失った力
震災
「終わり」展の見どころは73も掲げられた異聞だ。
 「世界の終わりを想像したことがありますか?」
 「危機がせまっていることを知ったら、残された時間でなにをしますか?」
 重い問いの合間に、新しい科学が紹介される。若返りを続けて永遠に生きるペニクラゲ。大気中に微粒子をまく温暖化防止策。驚きがあったり賛否が分かれそうだったりする事例を参考に、生命や文化の終末を考えさせられる。
 企画した荻田麻子さんは、地球環境議論が前提にする持耗可能性という考えに違和感があったという。「何を持続させるのかはっきりせず、自分のこととして考えるのが難しい。地球を救える気がしなかった」。そこで「すべてのものごとには終わりがある」と観客に問いかけ、一緒に未来を見つめる企画を立てた。
 準備は震災の前から。ただ、原子力発句所の事故で科学への信頼は失墜したと感じる。「科学を分かりやすく、楽しく解説するだけでは子どもの被曝を心配する親の気持ちに応えられない。そこに手を伸ばす試みでもあります」
 世界の終わりや最終戦争というイメージは、物語の世界、特にマンガやアニメなどサブカルチャーでは定番だ。
1973年刊行の五島勉『ノストラダムスの大予言』は大ベストセラーになり、99年7月の世界滅亡を主張した。今年12月にはマヤ文明の暦が終わり、世界も終わるという説が流れている。
 だが、震災後のサブカルチャーで終末論が盛り上がっているとはいいがたい。終末論的な想像力はオウム真理教の地下鉄サリン事件以来力を失った、というのは評論家・宇野常寛さんだ。「終末論は、70年前後に敗れた革命の代替物だったのだと思います」
 宇野さんは、集災後の想像力の姿を示す作品に、AKB48の記録映画「DOCUMENTARYOfAKBA48」を挙ける。「被災地を慰問し、自衛隊に見守られて歌い踊るAKBは、80年代のアニメでよく描かれた終末論的未来像を強く想起させる。終末論的な想像力が現実に追い抜かれ、もう力を持たないことを示している」
未来世代へ配慮生む
脱原発
 思想・哲学の分野では、終末論を考察する著作が相次いでいる。文芸評論家・すが秀美さん(近畿大数援)の『反原発の思想史』 (筑摩選書)は反原発運動の歴史の中に終末論を読み取る。
 とりわけ、 88~89年にニューウエーブといわれた盛り上がりは、原発事故による終末を説き「『ノストラダムスの大予言』とさえ呼応していただろう」と書く。終末論は「もっとも人を組織するに容易なイデオロギー」だが、終末の希求は必ず飴の終末にすり替えられ、運動は終息するというのがすがさんの頼察だ。
 「終末論的なユートピア主義は戦前にもあり、近代の一つの病でしょう」と桂さんは話す。「戦後は、原爆投下で端的に世界が終わっているという意隷が広く共有された。終末論は内容が不明のまま、幽霊のように徘徊している」
 対照的に、終末論を脱原発への重要なカギとみなすのが社会学者・大澤真幸さんの「夢よりも深い覚醸へ』 (岩波新書)だ。
 ドイツの素早い脱原発への転換に、大澤さんはキリスト教の伝統を見つめる。終末論はキリスト教の重要な教義の一つだ。いつか来る歴史最後の日に審判が下され、祝福された者は神の国に入る。そんな究極の未来から現在を評価する愚考の習債は、世俗化された現代にも引き継がれたと大澤さんは考える。
 原発が出す放射性廃棄物の処理は10万年もかかる。未来世代との連帯が不可欠だ。未来の他者への配慮は終末論的な思考習慣から導き出され、脱原発に寄与したのではないか、というのが大澤さんの見立てだ。
 「日本でも終末論をポジティブに活用できないかと考えました。終末はすでに来てしまったと考えることで、終末を避ける決断ができるのではないでしょうか」
 終末論の取り扱いは大変やっかいだ。だがそこに文化の面白さもある。
    (編集委員・村山正司)

2012年5月9日水曜日

村上隆鎮魂画が開く地平(411asahi)

ドーハ「Ego」展 批評家・椹木野衣が見る

マンガやアニメに連なる作風で世界各地で発表の錬く村上隆(50)の大規模な個展が6月24日まで、カタールのドーハにある展示場で開かれている。そこに現れた「変化」を軸に、美術批評家重野卦さんが評した。
 

 ドーハでの村上隆「EgO」展は、この作家が過去に海外を中心に数多く開いてきた展覧会の頂点であり、同時に新たな挑戦を思わせる。
 幅100Mに及ぶ鞋作絵画「五百羅漢図」はすでに多方面で話題だが、展覧会場となる建物に一歩踏み入れた途端、出くわすのはもうひとつの新作となる村上自身の巨大な座像。まるで大仏のような存在感には、誰もが度肝を抜かれるだろう。
 が、本展の見どころは、これら桁外れの新作だけではない。21世紀前夜からの村上の創作をまとめて通覧する機会としても、実によく練られている。
 展示室は、かつて渋谷のパルコギャラリーでの個展「ふしぎの森のDOB君」で発表された、カラフルな旧作彫刻に始まる。そこを起点に、多彩で異質な連作を部屋ごとに集約しながら、やがて、観る者は「五百羅漢図を据えた見渡す広さのホールヘと導かれる。近年の代表的な大画面の絵画やバルーン彫刻がところ狭しと並べられ、中央のテントでは自
作のアニメ映画が流されている。
 複雑なアートの文脈を読み解きたい者にも、そんなことは無関係に楽しみたい向きにも、国籍や年齢を問わず楽しめる、これはもう壮大なショーといってよい。
 もっとも、中心となるのが「五百羅漢図」であることに変わりはない。日本でも過去、大きな災疫や銭魂のために扱われてきたこの主題に村上が挑んだのは、むろん、東日本大震災があったからだ。震災直後から「芸術は無力だ」と随所で囁かれてきた厭世観を吹き飛ばすかのように、村上はいまこの時、芸術家にしかやれないことを見出し、1年を置かず
実現してみせた。見事というほかないだろう。
 この試みは、しかし村上自身にも変化をもたらさずにはいなかったようだ。これまでの、あからさまなオタク文化色は影を潜め、画面の全体にわたって、五百体におよぷ老いゆく人の有限な生と、それを笑い飛ばすかの自然と宇宙の無限が大胆に対比されている。あっけらかんとしたポップさばそのままだが、なにかが決定的に違っている。
 これまで村上は、欧米のポップアートの文脈を、日本の戦後サブカルチャーと接続することで評価を得てきた。けれども、すでに本展は欧米の主要な美術館ではなく、アラビア半島の砂漠の都市で開かれている。そのことに象散的なように、村上は重ねて来た評価をバネに、「西洋美術」の彼岸へと足を塔み入れつつあるのではないか。
 かつての東京芸大時代の師、平山郁夫はシルクロードを唱え、その前身となる東京美術学校の役立に深く関わった岡倉天心は「アジアは一つ」と訴えた。村上は、これらを真正面から受け継ぎ、単にアートや文化であることを起え、「文明」としか言いようのない次元で絵を描き始めている。

装いで探る人類史(509asahi)

「杉本博司」展

 人類史を「装うこと」から考察する−。そんな壮大な試みに、写真家・現代美術家の杉本博司(64)が東京・北品川の原美術館で挑んでいる。題して「杉本博司 ハダカから被服へ」(7月1日まで)。
 展示されているのは、博物館の猿人のジオラマやろう人形館の展示を収めた写真から、サンローランや三宅一生らがデザインした衣服を「彫刻」としてとらえた写真まで。「人間がほかと違うのは、自意識、恥ずかしさから、裸ではいられないこと。衣服は性器を隠すことから始まり、階級社会のシンボルにもなった」
 その流れをたどるために写真ごとに「紙芝居仕立て」で杉本による長いキャプションがついている。
 一方、庭には安い竹ぼうきで生け垣も作った。「静謐な写真のイメージがあるかもしれないが、ふだんは悪い冗談ばかりを言っていることを表に出した」のだそうだ。東京・銀座のギャラリー小柳でも6月23日まで個展を開催。     (大西若人)

暗がねじれたアバンギャルド(502asahi)

山口晃展「望郷」

 武者絵と現代風俗がつながったり、現代建築に古風な建物の屋根が載ったり。時を超える楽しみに満ちた作風で知られる山口晃(42)の個展「望郷」が13日まで、東京・銀座のメゾンエルメス8階で開かれている。立休、絵画と軽やかに山口ワールドが展開している。
 「こんなところに電柱あったっけ?」。ガラスブロックに囲まれた吹き抜けに足を踏み入れ、こう思う人もいるだろう。立ち並んでいるのは、実は既存の丸柱を山口が電柱に見立てたもので、題して「忘れじの電柱」。昭和の懐かしさの一方、そこに付く機器はメカっばく、ツルツルピカピカしている。
 「SF的、未来的だが、男の子の落書きが立ち上がったような古臭いものとして作った」と山口。見立ての面白さに加え、やはり時間が交錯している。
 電柱以上に作りたかったというのが、「正しい、しかし間違えている」と題した小部屋。中に入ると、部屋の床が傾いている。それだけで生まれる違和感。かつて遊園地で体験した仕掛け小屋の「再現」だとか。
「望郷というと後ろ向きだが、希望の『望』でもある。同じものを作るのではなく、かつての感動の再現が大事かな、と」
 そして、もう一部屋にはいつもの筆敦による水墨画風の東京パノラマ「TOk・10山水」が銭座。驚異的な細部と異なる時間が接続した都市の姿に吸い寄せられる。
 「写真が登場し、宗教からは放り出され、と美術はやせ細ってきた。でも、やせ細りと研ぎ澄ましを同義としてやってきた」。敵艦でねじれたアバンギャルド宣言というところだろうか。  (編集委員・大西若人)

ささいなものに潜むドラマ(404asahi)


ゲルダ・シュタイナー&ヨルク・レンツリンガー

人が地上で生きる限り、逃れられないものがある。時間、重力、あるいは自分の休。人類は文明や科学を進め、時間を縮めたり空を飛んだりして、それらからの解放を目指してきた。
スイスの男女2人組による過去最大の個展は、そんなご立派なもの言いとは裏腹に、とるにたらないもの、ささいなものにあふれている。最初の一室は、コケのような自然物から造花のような人工物まで、がらくたとも見えるものが重ねられたり、つられたり。楽しげだが、戸惑う人もいるかもしれない。しかし次第に、ささいなものへの繊細なまなざしに気づくだろう。例えば「涙を読む人」では、乾燥して結晶化したいろんな人の涙を顕微鏡で見る。細かい編み目が走るものあり、粒状のものあり。隣りには作家の涙の結晶の写真が拡大展示されているが、これもさまざま=写真上。
休調や気持ちで形が変わります、などと聞かされると、人が生きた時間のつつましくも確かな痕跡を、体をうんと小さくしてたどった気になる。切なさといとおしさが胸に去来する。
2人は、開催他の水戸に1カ月以上滞在して制作。高い吹き抜けを持つ展示室で展開される抜けを持つ「リンパ系」もその一つだ。
鑑賞者は、天井から吊るされたアルミ箔状幕による大きな円筒の下に寝そべる。この寝そべり鑑賞は二人のおはこで、見上げると、幕に乱反射する光の中、木の枝や部ブイらしきスチロールの塊などが多数中空に。その間を巡るビニール観を、鼓動とともに液体が進む。-同下。
なるほどリンパ液。体内に入り込み、生命の樹を体感する気分。一方で、重力から解かれた宇宙空間のようでもあるし、風にざわめく幕の音が葉擦れに聞こえ、今度は一瞬にして森の中で寝ころぷ感覚になる。さらにブイは藻着物にも見える。すべてのものを流した昨年3月の記憶も封印されているのか。
日常的なものを表現に導入するのは現代美術の手法の一つだが、導入すれば美術になるわけではない。しかし彼らは、一見とるにたらない、しかしいとおしいものに潜む力を引き出し、見る側の時間や重力、大きさの意識を変容させる。現代美術も侮り難い。(璧委員・大西若人)
▽5月6日まで、水戸市五軒町の水戸芸術館。4月9、16、23日、5月1日休館。

震災後の苦悩映す希望の建築(404asahi)

画風に変化野文様個展

「空想の建築」の絵画で知られ、本紙オピニオン面「ザ・コラム」の挿絵も手がける画家の野又穫(56)の個展が開かれている。東日本大震災後の苦悩から生まれた作品群など約20点を展示している。
懐かしい未来を思わせる画風だったが、「blue construction」シリーズには、叙情性や物語性を排した、幾何学的、抽象的な建築が寒色で描かれるものが多い。ロシア構成主義あたりのデザインとも、通じている。
建物を描いてきた身に震災や原発事故は響き、「ゼロから始めるために」立方体を積むような表現にしたという。青系の色に政治家や電力業界、メディアを覆う憂いを重ねつつ、社会に向き合ってきたデザインに通じる描写で「希望を表現できたら」とも考えた。そんな現在の心境を伝える展示になっている。
▽29日まで、東京・外神田のアーツ千代田3331内の佐賀町アーカイブ。木~日曜のみ開廊。