2012年5月9日水曜日

村上隆鎮魂画が開く地平(411asahi)

ドーハ「Ego」展 批評家・椹木野衣が見る

マンガやアニメに連なる作風で世界各地で発表の錬く村上隆(50)の大規模な個展が6月24日まで、カタールのドーハにある展示場で開かれている。そこに現れた「変化」を軸に、美術批評家重野卦さんが評した。
 

 ドーハでの村上隆「EgO」展は、この作家が過去に海外を中心に数多く開いてきた展覧会の頂点であり、同時に新たな挑戦を思わせる。
 幅100Mに及ぶ鞋作絵画「五百羅漢図」はすでに多方面で話題だが、展覧会場となる建物に一歩踏み入れた途端、出くわすのはもうひとつの新作となる村上自身の巨大な座像。まるで大仏のような存在感には、誰もが度肝を抜かれるだろう。
 が、本展の見どころは、これら桁外れの新作だけではない。21世紀前夜からの村上の創作をまとめて通覧する機会としても、実によく練られている。
 展示室は、かつて渋谷のパルコギャラリーでの個展「ふしぎの森のDOB君」で発表された、カラフルな旧作彫刻に始まる。そこを起点に、多彩で異質な連作を部屋ごとに集約しながら、やがて、観る者は「五百羅漢図を据えた見渡す広さのホールヘと導かれる。近年の代表的な大画面の絵画やバルーン彫刻がところ狭しと並べられ、中央のテントでは自
作のアニメ映画が流されている。
 複雑なアートの文脈を読み解きたい者にも、そんなことは無関係に楽しみたい向きにも、国籍や年齢を問わず楽しめる、これはもう壮大なショーといってよい。
 もっとも、中心となるのが「五百羅漢図」であることに変わりはない。日本でも過去、大きな災疫や銭魂のために扱われてきたこの主題に村上が挑んだのは、むろん、東日本大震災があったからだ。震災直後から「芸術は無力だ」と随所で囁かれてきた厭世観を吹き飛ばすかのように、村上はいまこの時、芸術家にしかやれないことを見出し、1年を置かず
実現してみせた。見事というほかないだろう。
 この試みは、しかし村上自身にも変化をもたらさずにはいなかったようだ。これまでの、あからさまなオタク文化色は影を潜め、画面の全体にわたって、五百体におよぷ老いゆく人の有限な生と、それを笑い飛ばすかの自然と宇宙の無限が大胆に対比されている。あっけらかんとしたポップさばそのままだが、なにかが決定的に違っている。
 これまで村上は、欧米のポップアートの文脈を、日本の戦後サブカルチャーと接続することで評価を得てきた。けれども、すでに本展は欧米の主要な美術館ではなく、アラビア半島の砂漠の都市で開かれている。そのことに象散的なように、村上は重ねて来た評価をバネに、「西洋美術」の彼岸へと足を塔み入れつつあるのではないか。
 かつての東京芸大時代の師、平山郁夫はシルクロードを唱え、その前身となる東京美術学校の役立に深く関わった岡倉天心は「アジアは一つ」と訴えた。村上は、これらを真正面から受け継ぎ、単にアートや文化であることを起え、「文明」としか言いようのない次元で絵を描き始めている。

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