2010年4月30日金曜日

「美術学科」誕生によせて

みなさん、こんにちは、Yakeibanこと菅原です。

いよいよ待望の美術学科ブログが開設されました。
実際に美術学科が始動するのは来年の4月からということになりますが、今年度からも日本デザイン専門学校のオープンカレッジなどでは、美術学科としての体験イベントが行われていきます。
そういった情報もこのブログではどんどんお伝えしていきます。

母体となる日本デザイン専門学校としては全く新しい学科として誕生するこの「美術学科」ですが、この「美術学科」誕生の背景には実は結構な厚みがあり、今までも日本デザイン専門学校の中での美術に関わる教育としては、所謂「コースゼミナール」という形で脈々と続いてきたものであり、そこにはおよそ30年の歴史があります。
不詳ながらもこの菅原も日本デザイン専門学校の出身なのでありますが、今までは一つのコースゼミナールとして存続していたものが、この度晴れて「美術」というより広い視野のもと新たに一つの学科として生まれかわることになります。

それでは
「美術」に関心のある皆様、
「美術」に関わりのある皆様、
「美術」に関わろうとする皆様、
テーブルは整いました、「美術」の準備を

2010年4月28日水曜日

言葉をかたちにとどめる(4月asahi引用)

福田尚代さん(42)美術家
 かたちにならない言葉を、文筆家ならぬ美術家は、いかにこの世にとどめるだろう。言葉や書物をテーマに制作する現代美術家として、その一つのありようを「アーティスト・ファイル2010」展(国立新美術館、5月5日まで)
で見せている。
                  
 文字に沿い、小さな粒々の刺繍を丹念にほどこした手紙や名刺。文庫本の側面を彫刻刀で彫り、羅漢に見立てたオブジェ。長い年月を経て古書の表紙がうっすらと転写したグラシン紙のカバー。言葉が消えそうで、見えなくなるほどに、その痕跡は際だつ。遠い記憶を呼びさますような作品だ。一室とはいえ、国立の美術館での展示は初めて。「言葉と静けさに満ちた空間をつくろうと思った」という。幼い頃から夢中で本を読み、「言葉という不思議な存在」を思い続けてきた。東京芸大で油絵を学び、言葉を視覚的に表現しようと思い定めた。
 同じ頃に、回文を本格的に始めた。回文集を出版するほどで、今展でも披露する。例えばこんなふう。
 つまりは不滅
 泡と霜 使徒は集め
 ふわり待つ
 不思議と、はかなさや悲しみをたたえた文章が生まれる。「回文になると、私の浅はかな意識の制御から放たれて、言葉が言葉になろうと自律する気がします」
 集中して書くこともあれば、夜中にはっと目覚めて書きっけることも。「回文から、なぜいろんな景色が見えるのか。言葉の不思議さに心をうたれる」。言霊を招き寄せるのか、その逆か。
 美術作品と回文の制作を通じて「言葉には命がある。人間がつくったのではなく、もともと自然のなかにある」と思う。光や葉っぱや、水の粒にも言葉は満ちているのだと。     (小川雪)

マンガ・アニメの性描写規制(409asahi引用)

 子どもが目にするマンガやアニメの性描写は、どこまでなら許される? 東京都が進めている青少年健全育成条例の改正【※】をめぐる論議は、今も続いている。「非実在青少年」と定義された登場人物の性行為は、子どもに害を与えるのか。どうすれば、子どもはまっとうに育つのだろうか。    (聞き手・鈴木繁)
 【※】東京都青少年健全育成条例改正案 マンガやアニメ、ゲームなどに登場する、18歳末満と判断される架空キャラクターの性描写を規制する。ランドセルを持つなど18歳末満と思われる登場人物を新語の「非実在青少年」と定義。反社会的な性行為を描写した作品は、18歳末満への販売を禁じる。都議会で民主党などが同意せず、継続審議に。

・現状に問題はないのか
・表現が窮屈になるか
・規制が独り歩きしないか


明らかなポルノ見せていいか
 
     日本ユニセフ協会大使・歌手
        アグネス・チャンさん

 まず押さえておいてほしいのは、東京都は1964年から「不健全図書」の規制を始めていること。マンガやアニメなどの姿を借りたポルノの制限はずっと前からあるのです。しかも今回の改正案は、18歳未満の子どもとの性行為や残虐行為を正当化する作品を、作ったり、描いたり、売ったりしてはいけないと言っているのではありません。ただ、18歳未満の子どもたちの手に渡らないようにしようとしているだけです。
 ですから、それは、「表現の自由」の侵害につながるような話ではありません。私も表現者ですから、表現の自由の大切さは身にしみています。「何も措けなくなるのでは」と心配する方もいますが、過敏すぎる反応ではないでしょうか。
 「しずかちゃんのシャワーのシーンがあるから、ドラえもんも読めなくなる」と心配する方がいますが、あり得ません。条文を読めば、子どもに有害なものだけを問題にしていることは分かると思います。
 明らかに子どもと思われるキャラクターが、繰り返し性行為をさせられ、性的な虐待を受けている。しかも、それをうれしがる。そんなマンガが、コンビニや有名書店に、かわいい表紙をつけられて並んでいる。こういう状況を放置していていいのか、と皆さんに問いたいのです。
 マンガやアニメは現代日本が誇る文化であり、産業であることに、私も異論はありません。でも、その中に、ひどい「ロリコン」マンガなどが交じっており、しかも、現在の条例の中では成人指定ができない。
 子どもの性虐待を描いたポルノは、インターネット経由で世界中に広がっていて、国外からも非難の目が向けられています。アメリカやカナダなどでは、マンガやアニメであっても、子どもの性虐待を描写したものは、国の法律で規制されています。日本が「ロリコン」大国の汚名
を着せられてはたまりません。
 子どもの性虐待を描いたポルノを、子どもが見てしまうことで起こる問題は、大きく二つあります。ひとつは、子どもが性的に搾取されている場面を露骨に描いた表現は、子どもという存在全体をおとしめることになる。これは広い意味での人権侵害です。もうひとつは、それを見た子どもが、虐待や暴力を受け入れなくてはいけない、喜ばなくてはいけないと思いこむ、誤ったしつけ効果を招く恐れがある点です。
 「子どもの性虐待を描いたポルノが、教育に悪影響を与えるという根拠はあるのか」との主張がありますが、無いとは言い切れない。少なくとも、兄妹がひたすらセックスしたり、性的な虐待を受けたりしているマンガを、教育上いい効果が期待できるから進んで子どもに見せたいと思う親はいないと思います。
 こういうものが「表現の自由」という美しい言葉で守られるべきものでしょうか。
出版業界の一部には、「成人指定され『成人コーナー』に置かれると、売れなくなるから困る」という声があると聞きます。もっと売りたもうい、儲けたい。そうした一部の大人のエゴで、子どもの手の届くところに子どもの性虐待を描いたポルノが置かれてしまっているのです。
 結局、子どもの性虐待を描いたポルノは、子どもを性的な道具として見たいという、少数の、特別な「趣味」を持った人のためのものです。その「趣味」のために、そして、一部の出版社や作家の商売のために、保護されるべき多くの子どもたちの健全な発育が脅かされています。
 「東京都という権力が、規制と許容の線引きをするのが心配だ」という方もいますが、実は一番弱いのは子どもたちです。マンガを措くペンを持っている人たちは、大きな権力を持っています。ペンは、子どもをどんな風にも扱える。現行の条例をすり抜けて、子どもたちを脅かすペンによる暴力やペンによる搾取の現実は、世の中の多くの人たちの想像を超えています。「こんなのが売られているんですよ」と見せると、みなさん驚かれます。
 決して芸術や文学作品を窒息させるわけではない。子どもの性虐待を描いたポルノが、子どもたちが容易に手に取ることが出来る場所に漏れ出している現状を、もう一度みんなで考えてみよう。今回の都の条例案は、そういうきっかけを与えてくれるチャンスだと思います。

×子どもの性避けられぬテーマ
                マンガ家
                竹宮恵子

 東京都の「非実在青少年」関連の改正案を読んで、これだと、私の「風と木の詩」は丸ごとひっかかってくるなと、まず思いました。
 この作品は、性愛そのものをテーマにしています。描き始めたのは、1976年ですが、それまで女の子の性にかかわる事柄というのは、ほとんど隠され、きちんとした性教育がなされていなかった。かといって親から子には教えにくい。そんな問題を少女たちに伝えたい、考えても
らいたいと思って措いたんです。
 ですから、主人公たちは、13歳から16歳くらいですし、読者の想定も14歳くらいが中心。純愛もありますが、性的な堕落も、虐待も出てくる。都条例改正案の問題視する暴力とかかわる性描写が、これでもかとばかり登場します。どうしても描きたかったテーマでした。それは、現実に起こりうることだから。
 幸い、「風と木の詩」は、多くの読者の共感を得ることができました。心理学者の河合隼雄先生からは「女性性に疑問を持つ少女期に、内的な世界を持った女性が『風と木の詩』を読むことは、救いになる」との評価もいただきました。
 構想してから掲載£でに、7年かかりました。最初は、編集部もクレームを恐れ腰が引けていたんです。今回、都は「ポルノだけを対象としているので、大部分のマンガはだいじょうぶ」と説明していましたが、条文がこの先、どう独り歩きするかば分かりません。
 将来、どこかの図書館員が気を回して「これは、少年の性描写があるから、子どもの目に触れない閉架に収めた方が、後難がなくて安心できる」と考えるかもしれないし、書店の経営者が「こんな、子どもが性暴力にさらされているマンガを並べていて、万が一にも摘発を受けたら大変だ」と、版元に送り返してし事つかもしれない。条例化するということは、そういう杓子定規な対応を呼び込んでしまいかねない。
 マンガは、子どもたちに寄り添うカウンターカルチャー(対抗文化)です。大人の権威や文化が軽んじてきたもの、うさん臭く思ってきた領域に突進するのが持ち味。そして、子どもの性や欲望は、読者の自意識や生き方と深くかかわる問題として、マンガが追求すべき大きなテーマになりました。そこに規制がかかることは、マンガ表現が窮屈になるだけでなく、文化としての根っこが失われる恐れがある。
 性の現実そのものが、特に女性にとっては、暴力性と不可分なものですし、男性にとっては過剰に享楽的なこともあるでしょう。親御さんたちの、自分の子どもは、なるべくそういうものに触れさせたくない、無垢なままで、というお気持ちは分かります。でも、汚れた、危険な現実にブタをして、全く触れさせないのが、子どもたちにとっていいこととは思えないのです。
 多くの子は、禁止するとよけいに読もうとするものですし、しかし、もっと恐ろしいのは、荒くれた現実を知らず、18歳まで無菌状態でいて、いきなり汚濁の中に放り込まれることです。性や暴力の問題は、被害者や加害者の口から学ぶことが難しい。現実に体験したら、それこそ大変! 虚構の形を通してでも、知っておくことが大切です。
 「風と木の詩」は、お母さんが
「これは、あなたにはまだ早すぎるから読んじゃだめよ」と軽く釘を刺しっつ、手に届くところに置いておく。娘さんは背伸びをしている自覚を持って、こっそりと読む、そういう伝わり方が理想です。
 何もかも野放図でいいとは、私も考えてはいません。露出度の高い、刺激の強いマンガは、それだけで売れてしまいます。出版社や作者が、その図式に安易にのっかってしまうと、マンガの、表現としての可能性を自ら狭めてしまう結果となる。
 ただ、現状が十分かどうかの議論はあるにしても、すでに規制はあって、成人向けとされた本は子どもたちの目に触れないよう売り場を変えたり、帯を付けたり、発行部数を制限したり、工夫はしているのです。
 個々に行き過ぎた作品があるとしたら、新たな法律や条例をつくるのではなく、描く側、出版する側が、教育関係者や父母の代表の方々とこれまで以上に真摯に話し合い、現実的な対応策を探る。そんな方法も可能なのではないでしょうか。

死んだ子背負うチンパンジー(427asahi引用)



 
チンパンジーの母親が死んだ子どもをミイラ化するまで背負い続ける例を、京都大学霊長類研究所の林美里助教、松沢哲郎教授らが同じ群れで複数観察した。ヒトが死者をとむらう行動の起源ではないかとみている。27日付米生物学誌に発表する。(瀬川茂子)

ミイラ化した子供を背負うジレ=京都大霊長類研究所提供

弔いの起源?
 
チームは、西アフリカ・ギニアで野生チンパンジーの群れの調査を30年以上続けてきた。ジレという名前のチンパンジーが1992年に病死した2歳半の子どもを27日間以上、2003年にも病死した1歳の子どもを68日間背負い続けた。ジレだけではなく、同じ群れの別の母親も死んだ
2歳半の子どもを19日間背負った。
 3例とも死体はミイラ化したが、母親は生きている時と同じように毛繕いをしたり、体にたかるハエを追い払ったりして、子どもに愛情を示しているようだった。生きているときと背負い方が違い、「死んだことは理解している」とチームはみる。
 「ヒトが死者をとむらう気持ちも進化の過程で生まれた。死んだ子供によりそうチンパンジーの行動に、その起源があるのではないか」と松沢教授は話している。

日本文化は未成熟?(425asahi引用)




カワイイは「戦略」村上隆さん
解釈に誤解、当惑 黒沢清さん

「クール・ジャパン」テーマに東工大でシンポ

カワイイは「戦略」「カワイイ」表現が、日本のサブカルチャーの象徴として海外で注目されている。背後に見え隠れする「未成熟」の問題を、どう考えるか。


「クール・ジャパノロジーの可能性」と題した国際シンポジウムが3月上旬、東京・大岡山の東京工業大であり、一線で活躍する作り手と研究者らの議論が客席をわかせた。
 シンポジウムは2日間の日程で、初日は「もう一つの日本学」がテーマ。「日本的未成熟」の議論は2日目に行われた。美術家の村上隆さんと映画監督の黒沢清さん、.米国在住の比較文学者K・ビンセントさん、社会学者の宮台真司さんが出席、批評家の東浩紀さんが司会を務めた。
 作り手にとって、近年の「クール・ジャパン」の推進ムードは、浮ついたものに見えるようだ。国際的に成功を収めた村上さんだが、「(世間の理解のような)簡単なものじゃない」。アニメ風のポップアートを選んだのは、戦前・戦後を通じて日本の美術界が抱いてきた西欧コンプレックスを切断したいと思えばこその戦略だったという。
 「(海外市場の)中に入り込み、複雑なものを単純化して、どうすればより深いメッセージを読み取らせられるか、根気強く挑戦してきた」
 黒沢さんも海外に熱心なフアンをもっ。だが①静かで②スタイリッシュで③平面的=日本らしい、というお決まりの解釈の「誤解」に、何度となく当惑してきた。
 「好意的な評価なのですが……。ただ最近は、ねらいをほのめかせば伝わるはずと期待している自分も、筋違いだと思い至った。主張を明確に伝える欧米の人の日には、未成熟に映るかもしれない」
 そのうえで黒沢さんは、まだ若い表現様式である映画は、動物のようにカメラをただ向けるだけで成立すると述べた。「だから日本人はたけてきたのかもしれない」
 ビンセントさんによれば、明治維新の後、日本人は成長=近代化という価値を内面化して「集団的変身」を遂げた。戦後も大江健三郎らが米国依存に甘んじる「去勢された」敗戦国の姿を描き、江藤淳らが母性社会の特質を指摘するなど、未成熟は克服すべき幼稚さとされてきた。
 だが現在、村上さんのアートには西欧への風刺があり、未成熟を逆に楽しむ姿勢がある。黒沢さんの映画には大人になれない父親が登場したりする。ビンセントさんは、「成熟─未成熟」の二項対立を超えた想像力に期待をにじませた。
一方、1960年代以降のサブカルチャー史をたどってみせた宮台さんは、社会からの離脱、いわば「無関連化」を促す機能と解放感を伴った「カワイイ」という文化が、タブーなき何でもありの風潮の中で終わった、と語った。
 会の終わりに注目されたのは、村上さんの「本質的に、カワイイものは死と直面している。それゆえにカワイイ」との発言。映画「アバター」のヒットが、人々の中に潜む大規模な死への願望を感じさせるように、もっとすごいテーマがあるのでは、と。カワイイ恐るべし、を印象づける幕切れだった。
      (藤生京子)

わかりやすい症候群(4月・日ASAHI引用)

 さて、公開以来映画の全世界興行収入記録を瞬く間に更新した映画の「アバター」を巡る評価の論争は、本家本元の大権威である米アカデミー賞の判定で一応決着したのだろうか。撮影、美術、視覚効果の3部門の受賞にとどまったことから、映像における技術面の高さや完成度は認めるけど、ストーリーは分かりやすいが、いかにも単純だねえ、と。
 確かに映像は、専用めがねをかけるのは、うっとうしいが、立休的であり、美しい。アカデミー賞が与えられたのも分かる。でもね、見終わって考えたのは、ストーリーもそうだが、何で映像まで立体的にして、見る側に対し、楽で「わかりやすく」しないといけないのか、という疑問だ。恐らく、今の通常の映像技術をもってしても、あれに近い立体感と奥行きを、観客自らの想像力をもつて補える映像は可能だろう。いや、白黒の時代から、ライティングやカメラワークに工夫を重ねた結果、奥行きや色彩感すら感じさせる映像が、山ほどあったのを思い出す。
 平面たる画面に音が加わり、色が、そして、奥行き、つぎは匂いかな。今年は、テレビやゲーム機の世界も「3D元年」だそうで対応機が準備されるとか。そんなに、楽で「わかりやすい」ことが、いいのかなあ。
 映像に限らない。哲学者の鷲田清一さんは、新著『わかりやすいはわかりにくい?』(ちくま新書)のなかで、世間にはびこるわかりやすさ」志向に疑問を投げかける。
 この世の中は、かつてに比べ、ますます複雑化し、情報のみ垂れ流され、むつかしい事態や問題が溢れている。だからこそなのか、迷った人々の心を、含みも屈折もためらいもない、粗雑な物言いやワン・フレーズのイメージ語がさらっていく。
 未知の問題を、分かっているものだけや、過去に自分が手に入れた理解の方法でわかりやすく解釈し、即座に解決しようとする危うさを鷲田さんは説く。わかりにくいことの内に、実は重要なことが潜んでいる。結論をあせらない。自分なりにつかみ取った「価値の遠近法」で、問題が「立体的」に見えてくるまで、じっと向き合うことが大切だと。
 おや、ここにも、3D映画を連想される「遠近法」、「立体的」というキーワードが。でも、「アバター」の「遠近法」は専用のめがねで与えられる。お仕着せの同じ尺度、結果、見える立休も同じ。じゃ、やっぱり、ねえ。   (編集委員・四ノ原恒憲)

森村泰昌さんがなりきる「日本の自画像」(4月・日ASAHI引用)




滑稽な表現胸に迫る
 
三島由紀夫から、内外の為政者、ピカソや手塚治虫といった表現者まで。美術家の森村泰昌さん(58)が20世紀を作った男たちに扮した写真や映像作品を集めた個展が5月9日まで、東京都写真美術館で開かれている。誇張や滑稽味にあふれる表現が、なぜか見る者に切々と訴えて
くる。(編集委員・大西若人)

 「静聴せよ。静聴せよ。静聴せよと言っているんだ」
 「森村泰昌 なにものかへのレクイエム」展の会場ホールでは、大画面で、三島に扮した森村さんが叫ぶ。1970年の白衛隊市ヶ谷駐屯地での演説を再現した映像作品だ。しかし憂えるのは、国よりもむしろ芸術。「自分を否定する現代の日本の芸術の流行りすたりに、どうしてそ
んなにペコペコするんだ」と。
 森村さんは85年、自分を受け入れてくれない美術の世界に「これでも食らえ」というつもりで、顔に色を塗ってゴッホの自画像になりきった。
 なりきることによる、自己確認。以後、西洋美術の名作の人物に扮する写真表現で評価を得てきた。「戦後教育では美術といえば西洋美術。だからそこから始めざるをえなかったけど、そろそろ日本に向かってもいいかな、と」。加えて「21世紀になって、20世紀のことが消し去られている」という思いもあった。
 ではどうやって「20世紀の日本」に向かうか。手がかりが三島だった。多感な年齢で撰した、自衛隊での演説と割腹自殺。「彼は三島由紀夫という芸術家名で行動を起こしている。芸術表現ともいえるんです。そこから入れば、浅沼稲次郎にも、あるいは海を飛び越え、時代をさかのばってレーニンにも行ける」
 2006年の三島からシリーズは始まり、ヒトラーにはチャプリンの映画「独裁者」を介してなりきる。映像の中では、笑えるダジャレ演説と、「独裁者になりたくありません」という切々とした演説が交差し、「21世紀の独裁」について考えさせる。
 さらに、ピカソや藤田嗣治らの芸術家に扮した作品が加わった。長い口ひげがはねあがったダリや、はげ頭のピカソ。「彼らは作品以上に、その姿が写真で知られた」。それが20世紀なのだという。
 「心の旅」と森村さんが呼ぶ表現行為は、最新作で、ぐっと作者に近づいてゆく。展示の最後に位置する映像作品「海の幸・戦場の頂上の旗」は、1945年に硫黄島で星条旗を掲げる米兵たちの写真が題材だが、マリリン・モンローや、青木集の絵画「海の幸」を思わせる日米の兵士が行き交う夢の中のような作品だ。そこに、父親に扮した森村さんや母親も登場。最後は兵士たちが、芸術の象徴としての白旗を掲げる。
 小柄な東洋人の男性としての身体を使って道化師のように振る舞いながら、西洋の泰西名画を追い、マリリンに象徴されるアメリカ文化と向きあう。それは、森村さんのセルフポートレート(自写像)であると同時に、明治以降に西洋文化を必死で吸収し、戦後は政治的に去勢されたかのようにアメリカ文化に浸ってきた、日本や日本人の戯画的自画像でもある。だから、ひりひりと胸に迫る。
 森村さんのメークは、眉毛や鼻が強調されているように見え、どこか腹話術の人形を連想させる。それゆえに「この人物は、いったい誰に動かされているのか」という問いが浮上る。、それがまた、日本の自画像であるという思いを強化することになるのだ。
    ◇
 愛知県・豊田市美術館、広島市現代美術館、兵庫県立美術館に巡回。4月28日まで、
東京・清澄1の3の2のシュウゴアーツでも関連展。

「アリス・イン・ワンダーランド」(4月asahi引用)


素敵にイカれたキャラ設定

 懐中時計を持った白うさぎの後を迫って穴に転がり落ちたアリスが着いたのは、チェシャ猫や青い芋虫の賢者など奇妙な生き物が住むワンダーランドだった! 開巻早々、色鮮やかに、めくるめくファンタジーの世界が広がる。
 ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』はこれまで何度も映像化されてきたが、今回のティム・バートン版はどれにも似ていないはずだ。それは、VFXを駆使した3D映画という技術的なことだけではない。何しろここに登場するアリスは19歳。彼女は親が決めた退屈な男との結婚という現実から逃避して、再びアンダーランドという不思議の国にやってきた。いわば後日談として善かれたオリジナル脚本(リンダ・ウールヴアートン)なのである。
 バートン監督はSFや怪奇映画を偏愛し、往々にしてそれらと係わる題材に自分の個性を織り込んで独創的な作品を生み出してきた。異端的なものへのシンパシーもまた顕著な特徴だ。今回も決して例外ではない。
 原作のとりとめのない幻想性を踏襲する映像作品を「小さな女の子が奇妙なキャラの言いなりになって彷撞い歩くだけ」と感じていた彼は、原作の枠の中に豊かな物語性と情感を注ぎ込み、冒険とアクションを惜しみなく羽ばたかせる。もちろん、得意のダークなユーモアをまぶすことも忘れていない。19歳のアリスは、「首をはねよ!」が口癖で頭がデカい赤の女∃;の独裁からアンダーランドを解放する伝言縫の救世主。剣を手に、恐ろしい怪物を退治する勇者という設定だ。さらに、どのキャラも素敵にイカれている。7作目のコンビとなる盟友ジョニー・
デップが演じる目がデカいマッドハッター(帽子屋)を筆頭に、どこかズレた愉快な個性と人間的な感情を与えられ、「戦うアリス」を賑々しく支える。
 そして、最初は19世紀半ばの英国のしきたりになじめない異端者だったアリスは、だんだん自分の運命を受け入れ、精神的に成長し、現実に立ち向かい、自分の力で未来を切り開いていく。
 ファンタジーと見せて、現実に帰着する。これもまた「バートンらしさ」なのだ。
(稲垣郁々世・映画評論家)
17日から全国公開。

2010年4月15日木曜日

新たな「美術学科」の為に!

2011年春、美術学科新設!!!
目下、美術学科新設の為、着々と準備を進めている我々である。
ブログ「テーブルは整った、『美術』の準備を!」では、美術学科新設に向けて、
我々の考える「美術」へのアプローチ、美術界での出来事、展覧会・書籍の紹介、美術学科スタッフの徒然なる事象・呟き・囁き、現況の日デ、映画・文学など文化全般などへの言及を通して、様々な側面から、新しく誕生する「美術学科」の骨格を露にして行くだろう。
時には脱線して、「美術」の枠外へと跳んでしまう事もあるかもしれないが、
テーブルは原野であり、原初の世界である。跳んでしまったとしても着地点はテーブルの視界の中だ。
このテーブルに構築されて行く「美術」は、我々スタッフと、ここに集う未知の人々によって確かな「核」を持つだろう。
テーブルを眺める窓はもう開かれている。
もう躊躇している暇はない、テーブルに立ってみることだ!
立ちさえすれば、遠近法は自ずと浮かび上がる。
このプログに投稿する事も、その一歩である。
まだ見ぬ「未知の人々」に我々は熱いエールを送る。

美術学科 建石(cabinets)