2010年4月28日水曜日

わかりやすい症候群(4月・日ASAHI引用)

 さて、公開以来映画の全世界興行収入記録を瞬く間に更新した映画の「アバター」を巡る評価の論争は、本家本元の大権威である米アカデミー賞の判定で一応決着したのだろうか。撮影、美術、視覚効果の3部門の受賞にとどまったことから、映像における技術面の高さや完成度は認めるけど、ストーリーは分かりやすいが、いかにも単純だねえ、と。
 確かに映像は、専用めがねをかけるのは、うっとうしいが、立休的であり、美しい。アカデミー賞が与えられたのも分かる。でもね、見終わって考えたのは、ストーリーもそうだが、何で映像まで立体的にして、見る側に対し、楽で「わかりやすく」しないといけないのか、という疑問だ。恐らく、今の通常の映像技術をもってしても、あれに近い立体感と奥行きを、観客自らの想像力をもつて補える映像は可能だろう。いや、白黒の時代から、ライティングやカメラワークに工夫を重ねた結果、奥行きや色彩感すら感じさせる映像が、山ほどあったのを思い出す。
 平面たる画面に音が加わり、色が、そして、奥行き、つぎは匂いかな。今年は、テレビやゲーム機の世界も「3D元年」だそうで対応機が準備されるとか。そんなに、楽で「わかりやすい」ことが、いいのかなあ。
 映像に限らない。哲学者の鷲田清一さんは、新著『わかりやすいはわかりにくい?』(ちくま新書)のなかで、世間にはびこるわかりやすさ」志向に疑問を投げかける。
 この世の中は、かつてに比べ、ますます複雑化し、情報のみ垂れ流され、むつかしい事態や問題が溢れている。だからこそなのか、迷った人々の心を、含みも屈折もためらいもない、粗雑な物言いやワン・フレーズのイメージ語がさらっていく。
 未知の問題を、分かっているものだけや、過去に自分が手に入れた理解の方法でわかりやすく解釈し、即座に解決しようとする危うさを鷲田さんは説く。わかりにくいことの内に、実は重要なことが潜んでいる。結論をあせらない。自分なりにつかみ取った「価値の遠近法」で、問題が「立体的」に見えてくるまで、じっと向き合うことが大切だと。
 おや、ここにも、3D映画を連想される「遠近法」、「立体的」というキーワードが。でも、「アバター」の「遠近法」は専用のめがねで与えられる。お仕着せの同じ尺度、結果、見える立休も同じ。じゃ、やっぱり、ねえ。   (編集委員・四ノ原恒憲)

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