2013年1月10日木曜日

希望はローテク(109asahi)

メルロポンティの思想を手がかりに

 「農業や林業のおじいさん、おじさんが夕方から集まって稽古する。その舞がすご
い。暮らしに根ざした身体を持つ人々の踊りが、第一線のダンサーを超えている」
 ダンサー・振付家の黒田育世(36)は昨年12月、宮崎県西都市の山あいの集落に1週間
通った。地元に数百年伝わる「銀鏡神楽」を見学するためだ。祭壇にイノシシの頭を供
え、ほぼ1日がかりで神に奉納する。古式を守り、観光化からも距離を置く「門外不
出」の神楽として知られる。
 黒田は女性ダンサー10人の集団「BAT工K」を主宰。20代で数々の質を受け、野田
秀樹の新作劇「エッグ」の振り付けも辛がけた。身体を極限まで酷使して踊り、叫び、衝
動や感情をむきだしにする。昨年、3時間の大作「おたる鳥をよぶ準備」を上演した。
 テレビは持たない。フェイスブックやツイッターも「やっていない」。シンプルに
「踊り暮らしている」黒田が東京から銀鏡を訪ねたのは、踊りの持つ原初の力とは何
か、考えたかったからだ。
 「毎年同じ舞を繰り返し、一生かけて次世代に伝える。共同体の中の踊りの浸透度が
強い。昔のままで麟みとどまり、生き抜く力を銀鏡神楽に見つけた」
 大自然にわが身をさらけ出し、人間の可能性を問う人もいる。探検家・ノンフィクション作家の角幡唯介(36)は新年をカナダ北極圏で迎えた。太陽が出ない極夜の星々を六分儀で測って位置を割り出し、約530キロの徒歩単独行に挑んでいる。全地球測位システム(GPS)や衛星携帯電話はあえて持たない。
 出発直前に旅の狙いを問うと、角幡はこう答えた。
 「自然が持つ本来の凶暴性を体感し、どうやって身体を自然に深く潜り込ませるか。
携帯やGPSはそれを阻害する要因になる。当然怖くて不安だが、一方で旅の喜びも増
すと思う」。便利すぎる日常への疑念が、昔ながらの探検へ駆り立てる。「創意工夫す
る過程と時間が消失してしまったら、人間は一体どこに存在すればいいのだろう」
便利さ遮断し見えてくる
 昨夏のロンドン五輪を前に引退した「常勝メダリスト」がいる。埼玉県音士見市で町
工場を営む辻谷政久(79)。.辻谷の作る砲丸はアトランタ、シドニー、アテネの五輪3大
会連続で男子砲丸投げの金銀銅メダルを独占した。
 約10キロの鋳物の球から7.26キロの砲丸を望程かけて汎用旋盤で削り出す。13歳から
父の工場で働き、数十年かけて体にしみこませた「職人の勘」が頼りだ。ハンドルにか
かる圧力、刃が球を削る音、表面の光の変化を見分け、重心が完全に中心にくるよう仕
上げる。ローテクから生まれたハイテク製品だ。
 コンピューター制御のNC旋盤で試作したこともあるが、7割が不良品になった。
 北京五輪には提供せず、ロンドンでの復帰を求められたが、「日本製の借用を保つに
は、次のリオでも勝てないと意味がない。年齢的に無理だ」と信念を貫いた。
 数年間寝たきりという不便な身休条件を知覚の深化に転じ、芸術活動へと昇華させた
のは明治時代の正岡子規だ。「写生」を説き、俳句や短歌、散文の革新を進めた。
 思想家・文化人類学者の中沢新一(62)は、かつて子規の言う「客観」を「過激なコン
セプト」 「心とモノがひとつになって流通流動しあっている存在の次元」と評した。
 「健康に動くことと日常言語をしゃべること。この二つで人間は岡りの自然から受け
る情報の大半を無意識に捨象してしまう。動けないまま凝視を続けることで、子規は小さな庭が豊穣な自然に満ちていると気づいた。言葉を最小限に切り帯めてそれを表現し、日常感覚では見えないものを取り出すことに成功した」
 では普通の人間はどうしたら、そんな根源的な発想に近づけるのか。
 「切断の技術を持つことです」と中沢は提唱する。
 「ネット社会も世界金融もコネクショニズムの世界。現代はつながることが善であり、強力なイデオロギーになっている。でも、人間が作った情報しか行き交わない空間
はトートロジー(同義反復)の世界ともいえる。遮断し、思索しないと新しい概念はつ
くれない。子規は小さな庭に理想型を見たのでしょう」
 世界の感触を全身で受けとめてこそ、新しい可能性が見えてくる。=敬称略(藤谷浩二)
体の複雑さ踏まえ実相に迫る
 私たちは身体を持つことでしか世界に存在できないし、そこで起こることを知ることはできない。では身体とは何だろうか?
 身体性を重視したフランスの哲学者モーリス・メルロボンティは身体を、「精神と物体」 「主体と客体」といった二元論を超えた「両義性」を持つものとしてとらえた。そしてその先に、私と他者、私と自然や社会との緊密な相互関係をも見つめた。『知
覚の現象学』では、身体を「世界の中へのわれわれの投錨(いかりを下ろすこと)」と表現する。
 メルロボンティの言う身体は、物理的な体をこえた広がりを持つ。杖を持つ手元でなく杖の先で知覚するように、道具を使うことで→身体」は伸び縮みする。また、私の身体と他者の身休、あるいは周囲の世界とはお互いに「含みあう」関係にある。.そうした身休の複雑なありようを踏まえた知覚に関する綿密な記述は、世界を見つめ直す道しるべになる。
 取材したのは身体にこだわる人ばかり。身体を通して物事の実相に迫ろうという欲望は、「哲学とは己自身の端緒のつねに更新されてゆく経験である」という哲学者の言葉と呼応していた。

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