2010年5月30日日曜日

「芸術の危機」問いかける(528asahi)



 仏文学著の渋沢龍彦が翻訳した仏作家・思想家マルキ・ド・サド(1740〜1814)の小説『悪徳の栄え 続』が発禁処分となって、今年は50年にあたる。これを機に、出版元の現代思潮新社が裁判記録を復刊した。当時に比べ、わいせつへの視線が緩やかになったかにみえる現代。かつての「禁書」をめぐる裁判は、そこにどのような意味を投げかけるのか。(米原範彦)

裁判記録を復刊

 『悪徳の栄え 続』を刑法のわいせつ文書販売、同所持罪に問うた裁判は、「わいせつか芸術か」が問われる裁判として話題を呼んだ。今回復刊されたのは現代思潮社(当時)編集部編『サド裁判上』 『サド裁判 下』。裁判記録や文学者による弁護証言などを収める。
 『サド裁判 上』には、「猥嚢文書であるとは思いません」などの渋沢による陳述も紹介されている。
     
 サドは放蕩と虐待の末、『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え』や『閑房哲学』といった噂虐趣味や快楽主義があふれる問題作を残した。
 渋沢はサドに傾倒。1959年6月に『悪徳の栄え正』を訳し、現代思潮社から刊行。12月に『悪徳の栄え続』を同社から2千部出すが、60年に419部が押収された。裁判の開始は61年。被告は渋沢と同社社長の石井恭二さん(82)で、69年の最高裁判決で有罪(罰金)が確定した。
 「検察官も裁判官も白分の言葉で語っていなかった。極限の中で善かれたサドの思想が、そんな言葉で断罪される無意味さを感じた」。石井さんは今、そう回想する。
 裁判の前期は60年安保の余韻の中にあり、後期は全共闘時代と重なった。渋沢の妻、龍子さんは「渋沢は政治的発言をしないのに、反体制派や政府に批判的な学生から同志とみなされた。むろん体制側でもないから、困惑していた」と振り返る。
 最高裁判決の前夜に深酒をして大遅刻をした渋沢。公判後に飲み屋で芸術談議に花を咲かせた支援者の文化人…。「みな真剣ではあるけれ
ど深刻ではなく、お祭り騒ぎの様相さえあった。60年代の活気や面白さでしょう」
 当時にあって現代にないものは変革への希望ではないか、と龍子さんは語る。「現代は性表現の自由は広がったかもしれないけれど、革新の
エネルギーは失われてしまった気がします」
 性に果敢に切り込む表現で知られる写真家の鷹野隆大さん(47)は、この間の時代変容をこう指摘する。
 「サド裁判の時代、芸術とは性や暴力を解放するものだった。今は、野放し状態のポルノグラフィーがはんらんしている。当時の意味での『芸術』の出る幕はない」
 鷹野さんが今日指すのは「暴力によらないポルノグラフィー」。それは例えば「見る側、見られる側という一種の支配と被支配の関係を取り
除き、見る側も同時に見られるような」表現形態という。芸術かわいせつかではなく、「芸術でもありわいせつでもある、と考えたい」と話す。
 高校時代から渋沢作に私淑してきた美学者の谷川渥さんは、こういう。
 「エロチシズムは芸術の主要素の一つで、想像力や思想という、知的行為を必要とする。サドや渋沢の作品には、これがあったが、現代はぼとんどすべてが表層的になっている。裁判自体は『芸術かわいせつか』という二元論に立脚していたためナンセンスだったが、サドや渋沢作品、裁判記録を見つめ直すことで、現代は芸術が危機にひんしている時代、と実感できるはずだ」

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