2013年10月24日木曜日

多くのねじれと謎(1016asahi)


「アンリ・ルソーから始まる素朴派とアウトサイダーズの世界」
 きちんとした美術館に作品が収まり、展示されること。美術を志す者の多くが願うことだろう。この展覧会に作品が並ぷ人のほとんどはしかし、そんなことは考えずに措き、作り続けてきたといえる。1986年開館の東京・世田谷美術館が集めてきた、素朴派やアウトサイダーアートと呼ばれる作家たちだ。
 専門教育を受けないまま、あるいは心の病を抱えて創作する人々たちの作品は、今や様々な展覧会が開かれ、今年のベネチア・ビエンナーレでも中核を占めていた。今展は、収集の起点でもあるアンリ・ルソー(1844~1910)の4点で始まる。パリの税関に働めつつ、描き始めたのは40歳ごろ。平板で簡潔な、でも温かみのある、なるほど素朴な表現を見せる。
 しかし本人はプロとして評価を得ることを望んでいて、ピカソらも高く評価したという。そんなこともあって、展示でも他の作家と隔てた扱いをしている。このねじれが、まず興味深い。いや、この展覧会には、多くのねじれ、謎が潜んでいる。
 風景や花、人物を、見たままに素朴に、あるいは異様に細かく、あるいはデフォルメして描いた作品群の多くには、確かに素人っばさが残る。でも、同じょうな絵を元気鬼子供が学校で描いたとしても、美術館に収まる可能性は低いだろう。見いだす人、時の機運、さまざまな偶然が重なったに違いない。一方で、美術史に位置づけたい表現もある。現クロアチアで郵便配達をしていたイヴァン・ラッコヴィッチが描いたガラス絵の「散在する村落」 (83年)=写真上=は、超現実的で雄大な構図と小さく措かれた楽しげなブリューゲル風の人々の対比が、大きな魅力となっている。
 心の葛藤と闘ってきた草間蒲生の作品もあるが、今や現代美術の代表的存在であり、もうアウトサイダーとは呼ばれないだろう。だからアウトサイダーアートなどの枠組みは、作品評価に先入観を与えるともいえる。
 でも、カメラ店を営みながらシベリア抑留休験を措いた久永強=同下は「生け軋廃山 (93年)=らの、名声や評価のためというよりも、やむにやまれぬ思いで措いた作品には固有の強さがある。こうした枠組みが、表現の原点に摸する機会を与えてくれていることば、間違いない。  (編集委員・大西若人)

0 件のコメント:

コメントを投稿