2010年9月14日火曜日

「孤高の画家」意外な一面(908asahi)

「田中一村 新たなる全貌」展

 奄美に渡って独創的な日本画を措きながら、無名のまま生涯を閉じた画家、田中一村(1908~77)。画業の全容を見せる「田空村新たなる朝鮮」展が千葉市美術館(同市中央区)で開かれている。「孤高の画家」のイメージが強いが、作品や資料の検証によつて画業の幅広さや周囲の支えが見えてくるなど、一村の新たな側面が浮かび上がってきた。 (小川雪)
周囲の支え・幅広い画業一村は栃木県出身。垂尻と千葉での暮らしを経て50歳で単身、奄美大島に移住した。紬工場で働きながら亜熱帯の風土に根ざした絵を措き続けるが、公に発表する機会を得ず69歳で亡くなった。「発掘」されたのは80年代。テレビで紹介されて反響を呼び、各地で展覧会が開かれた。
 主な作品を網羅する今展はスケッチや写真なども合わせて約250点。うち約100点が新発見を含む初公開だ。濃密な土着性に妖しさ、官能性も加えた奄美時代の画で知られるが、東京、千葉、奄美と時代順の展示をたどると、その画業は思った以上に多様だったことがわかる。
 幼い頃から南画(文人画)に習熟し、大正末から昭和の初めには、当時の日本で流行した中国・上海画壇の文人画を多く辛がけた。「藤花園」(26年)のように粘りのある強い描線が特徴だ。そして31(昭和6)年ごろ「南画に決別」する。

 その昭和初期はこれまで画家の「空白期」とされた。だが今回の調査で、松尾知子・千葉市美術館学芸員は「日本画の装飾的な技法をはじめ、様々な画風と画題へ手を伸ばしていたことがわかった」と話す。調査では、細密な博物画のような「楼之国」 (31年)も発見された。
 松尾さんは一村の「変化」の背景に国際情勢をみる。31年は満州事変の年。中国へのあこがれが日本人から失われて中国画への需要もなくなり「新たな画風の確立を迫られたのでは」という。
 戦後は洋画的な画風も身につけ、日展や院展などの公募展に精力的に応募したが、思うような結果を得られず中央画壇との決別につながった。
 今展はゆかりのある千葉、鹿児島、栃木、石川各県の美術館学芸員らが研究会をつくり、3年がかりで調査、準備した。8月のシンポジウムでは、各地で少数ながらよき理解者を得た一村の姿も見えてきた。55年には支援を受けて九州や四国を旅し、撮影した写真を画の構図に生かしている。奄美時代に特徴的な、事前にクローズアップした植物を配して遠景と対比させる構図もこの時期に辛がけた。
 「孤高」「禁欲的」とされる奄美大島での暮らしも、「人間関係が濃密な島では、住民と距離をとるくらいでないと制作に打ち込めない。周りもそれを見守った」と鹿児島県奄美パーク田中一村記念美術館の前学芸員、前村卓巨さんは話す。心を許せる住民との交流もあった。
 若い頃から貪欲に、器用に様々な技法、画題を吸収した一村。原初的な自然の精気が充満する晩年の代表作は、模索や試行の蓄積の上に花開いたものだった。
 600点近くに及ぶ絵画作品の総目録や、落款の一覧も載せた図録は力作。松尾さんは「一時期ブームのようになった一村は、まだきちんと検証、研究されていない。この展覧会が出発点」と話す。
 ◇26日まで。会期中無休。鹿児島市立美術館、鹿児島県奄美パーク田中一村記念美術館(同県奄美市)へ巡回。

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