2013年4月11日木曜日

ゆがんだ身体、現代映す(410asahi)


フランシス・ベーコン展

 ゆがみ、ねじれた身休とその肉塊。亡霊のような顔つき。アイルランドに生まれ、英国で活動したフランシス・ベーコン(1909~92)の絵は、ひと目で見る者の脳髄の奥深くに達し、忘れがたい像として定着する。美術史的にも市場的にも評価の高い画家の、日本では30年ぶりの大規模な回顧展は、大作を中心に三十数点。その浸透力を探る場になりえている。
まず、ゆがみ。とくれば、ピカソの「泣く女」などが思い浮かぶが、これは対象を複数の視点から捉え、一つの画面に再構成したキュービスムならではのゆがんだ顔だ。モデルの周りを画家がぐるぐる回って描いたイメージがある。対してベーコンが描く身体のゆがみは、対象が動いた残像が連なり重なって生じたように見えるのだ。 その印象を強めるのが、亡霊のような人物像だ。例えば「叫ぶ教皇の頭部のための習作」(52年、イエール・ブリティッシュ・アート・センター蔵)=写実上。薄くかすれた筆致による顔や体は、やはりこの人物が動いてしまったために生じた、写真のプレのようにも見える。
 ならば、動きや時間性が内包されているのではないか。静止した動画といってもよい。その中で際だつ大きな口は、口を開け続けるという動作の描写であり、叫び声まで聞こえてくる。 
 ベーコンはリアリズムを目指したという。そこに社会性が食まれてもおかしくないが、一方で映画監督に憧れ、作画に写真を活用し、さらにはX線写真にまで関心を持った。それを考えれば、ときに暴力的なまでに解体、再構成することで、映像の時代のリアルな人物像を求めた、とも思える。 
今回、出品作のほとんどがガラス板つきの額に入っている。ベーコン自身が、ガラスによって作品と観客に隔たりができることを好んだためで、当然ながら、鑑賞者の婆が映り込む場合がある=同下(手前は「椅子から立ち上がる男」、68年)。
 狙いではないらしいが、画申のゆがんだ身体と、ガラス上の私たちの身体が並び、重なる。この映像的な効果に、ベーコンが措く衝撃的な人物像は、現代の自画像ではないか、と再確認することになる。そのリアルさゆえに、見る者に深く浸透してくるのだ。(編集委員・大西若人)
 ▽5月26日まで、東京・竹橋の東京国立近代美術館。.4月15、22、5月7、13、20日休館。

0 件のコメント:

コメントを投稿