2011年7月16日土曜日

醜くとも現実美は見つかる(705asahi)

日本画家 松井冬子さん(37)



 幽霊や内臓があらわになった女性の死休、動物の亡きがらなど人々が目をそむけたり、社会的に排除されてきたりしたものを主題に、日本画を措いています。
 グロテスクと評されることもありますが、内臓は見えていないだけで、実際に人体の内にある。死体もこの世に確かに存在する。それなのに現代社会は快適さや便利さのみを追求し、おぞましいもの、醜いものを排除してきた。見た目はきれいになったが、リアルさが失われ、本質が押し隠されてしまった。しかし、一般的に美しいとされているもの、醜いとされているもの、それらをひっくるめたすべてが現
実の世界です。その中から美を見いだし、美を創造するのが芸術です。
 痛みや狂気を感じさせるような私の作品に共鳴してくださる方もいます。
えっ、あがめるほど熱狂的なファンもいるですって? もしそうなら、世界に一人だけでも共感していただけたら、という気持ちで描きたいものを描いているので、とてもうれしいです。
 バラや富士山を見て美しいと感じ、そのまま絵に措く人がいます。それはそれでいいのですが、ただバラがきれい、では芸術ではない。普遍性も持ち得ない。そんなのはつまんない。
 美術家として作品を創造するのに大切なのは、構築していくこと。考えに考えてコンセプトを練り上げ、想像力を最大限駆使して、作品を構築していくんです。パッションの赴くまま衝動に任せて描くような無責任なことは、私はしません。
 作品を構築していくにはデッサンカなどの技術が必要です。ただ、技術だけに偏すると、上手に描けたね、で終わってしまい、芸術ではなくなる。自分のパッションと技術がうまくかみ合わねばなりません。でも、私はイメージ通りの作品ができたと満足したことはありません。デッサンなど技術の修練は一生続くでしょう。
 美は簡単に見いだせたり、創造できたりするものではありません。日常生活に実はない、と言っていいかもしれない。きれいな花や美しい夕日はあるでしょうが、それはそのままでは芸術的な美ではない。自分の想像力を駆使しない限り、芸術的な美は見いだせない、と私は思います。その想像力は自ら磨かなければならない。
 たとえば、一つのボルトがすごく美しいという人だっている。その人はそのボルトが美しいと患えるぼどの想像力に達しているんです。実はモノそのものにあるのではなく、自らの想像力で発見するものです。
 想像力の磨き方ですか? まずは自分が何が好きなのかをどんどん突き詰めていくこと。どんな色が好きか。白なら、硬い質感か、軟らかい質感か。青っぽい白が好きなのか。追求していけば、何が本当に好きなのかがわかってくる。美への想像力があれば、一人になっても楽しいですよ。
      聞き手 池田洋一郎
      撮影   麻生健

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