2011年4月17日日曜日

対照的な顔の「読解術」(413asahi)


日野之彦展/小村希史展
 外国人の顔が、どうもうまく判別できない。そんな実感を持つ人は少なくないだろう。斎藤環『文脈病』によれば、顔の存在は読まれるべき「言語」に近く、「顔の外国語」に習熟していないための事態だという。なるほど。肖像画も、顔の「読解表現」なのだ。いま垂見でも、同世代の2人の画家が「顔」を中心にした個展を開いている。
 極端に見開かれ、焦点の合わない目。2005年のVOCA賞などで知られる日野之彦(76年生まれ)の最大の特徴は、6点ある今回の油彩にも表れている。多くは日野自身を措いたもののようだ。
 近づけば、筆致も省略の跡も分かるのに、少し離れると写真のようにも見えるのは、高い技量のゆえだろう。しかし全体として「虚構」と映るのは、独特の顔の力が大きい。日野は図録で「感情を消すため」と明かす。そう、この顔は「マスク」のようにも
感じられるのだ。
 例えば、「花に埋まる」(09年)=写真上。いかにも薄そうな、いや樹脂でできているかのような皮膚や造花を思わせる描写が、その印象を強める。
 徹底して顔の「表層」を見つめる描写。不気味ともいえる放心状態の顔に見過ごせないリアリティーを感じるのは、現代を生きる誰もがこうした表層を持たざるをえない事態がありうることを読み取るからだろう。
       
一方、小村希史(77年生まれ)が見せる油彩20点は、かなり暴力的。ルシアン・フロイドあたりを思わせる激しく大胆な筆致で措かれる顔は、ひどく傷ついた姿に見えたり、「頭の中の音」(11年)のように解剖図風に見えたり=写真下。
 日野とは対照的に顔の奥へと突き進み、傷ついているかもしれない内面を暴こうとするかのようでもある。
 顔の表層か奥か。2人の接近法は対照的だが、ともに一度見たら見まがうことがない。確かな「読解術」を持っている証しだ。
  (編集委員・大西若人)
 ▽日野展は20日まで、東京・有楽町1の13の1の第一生命南ギャラリー。土、日曜休み。小村展は23日まで、東京・銀座2の16の12のメグミオギタギャラリー。日、月曜休み

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