ジョセフ・クーデルカ展
近代の芸術表現は、卓越した才能が切り開いてきたと言ってよい。写真なら例えば、美しい構図を見いだす才能や、ある瞬間を締らえる才能といったものがあるだろう。
旧チェコスロバキア出身の写真家ジョセフ・クーデルカ(75)の回顧展も、才能のすごみを確認させるものだ。1968年のワルシャワ条約機構軍によるプラハ侵攻を撮った作品群が一昨年に垂居で紹介されたが、なぜあの奇跡のような写真が撮れたかについても考えさせられる。
58~飢年の初期作からして舌を巻く。ある現実にレンズを向けているだけで、モダニズムの美意識に貫かれたスタイリッシユな画面が登場しているのだ。
例えば、オフィスらしき光景の「『初期作品』から チェコスロバキア、プラハ」(飢年)=写真上。ガラス窓が描き出す格子を背景に、瓶に差された鉛筆と、机に突いた人物の脱が平行になった瞬間をとらえる。左隅で滞らぐ人影も心憎い。写真家は、冒頭に挙げた「構図」と「瞬間」という両立の難しそうな二つの才能を併せ持つ。いわば、瞬間の幾何学への才能。
写真は通常、「いつ何を撮ったのか」といった記録性を意識しがちだが、この写真家の画面はあまりに純度が高くそれらを忘れさせる。劇場を撮った連作なら、芝居の中身よりも人間開係の本質が浮上する。ロマ族の連作でも、民族固有の問題より、人間とは、生きるとは、といった普遍性に意識が及ぶ。
プラハ侵攻の作品が目に突き刺さってくるのも、旗を掲げ、戦車を取り込む人々に、瞬間の幾何学が働いているから心遣いない。70年に英国に亡命したクーデルカは、自身と重ねるように流浪者をテーマにした連作を手がけている。「『エグザイルズ』から アイルランド クロー・パトリック巡礼」 (72年)=同下=といった一枚でも、人物と杖の織りなす幾何学を瞬間的にとらえつつ、それぞれの人物の内面すら漂わせている。
86年以降は、廃虚などの風景を極端に横長のパノラマカメラで撮り続けているが、これもまた構図への意志のゆえだろう。
胸に迫る「瞬間の幾何学」に貫かれた作品群を見終えた後、2年前の東京で聞いたクーデルカの言葉を思い出していた。「見極める目を持った写真家なら、どんな場所でも美は見いだせる」 (編集委員・大西若人)
∇来年l月13日まで、東京国立近代美術館。12月16、24、28日~l月l日、6日休館。
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