3/1から3/3までの3日間学校展です。
美術学科は1年生の進級制作だけの展示となりますが、
3/3のひな祭りの1時から、美術学科担当の講師らも加わって
公開制作、ライブペインティングが行われます。
リクエストにも応えるということで、
制作者の旺盛な創作熱をご覧下さい。
2013年美術学科体験講座
2013年2月24日日曜日
2013年2月4日月曜日
なぜ撮ったのか 思考を迫る言葉(203asahi)
メモワール 写真家・古屋誠一との二〇年
小林紀晴(著)
集英社・1785円/こばやし・きせい1968年長野県生まれ。95年に『ASIANJAPANESE』でデビュー。97年『DAYS ASIA』で日本写真協会新人賞。主な写真集、著書に『ASIA R
OAD』『写真学生』『ハッピーバースデイ3.11』など。
小林紀情は写真家であり、同時に抑制の利いた文章を書く作家である。その小林が取り憑かれるように写真家・古屋誠一を追った長い年月の記録、思索が本書だ。
最初は1991年。著者は古屋の写真展に出かけ、古屋が精神を病んでいく妻クリスティーネを撮り、負のエネルギーが充満″した風景を撮り、ついには投身自殺直後の妻を撮った写真と出会う。
衝撃を受けた著者はその後、ニューヨークで同時多発テロに出会い、無性に現場を撮りたいと思う。しかし日本で体験した大震災では今度は撮ることを躊躇する。
なぜ撮るのか。撮っていいのか。なぜ発表するのか。発表していいのか。表現の根幹に潜む倫理、自意識、権利などの大問題を小林紀情は背負い込む。なぜなら、古屋誠一が妻を撮った写真が、そして古屋が写真集に書き込む言葉が小林に思考を迫るから。
ソンタグの『他者の苦痛へのまなざし』に引用されたプラトンの言葉を、著者は冒頭に孫引きする。「お前たち呪われた眼よ。この美しい光景を思いきり楽しめ」
悲痛さ、残酷、災いを(呪われた眼)は見ようとする。その卑しくも根源的な欲望に私たちは常に突き動かされる。写真家ならばなおのこと、その(眼)で記録をしてしまうかもしれない。
2000年。オーストリアの古屋を著者は訪ねる。何が古屋とクリスティーネの間にあり、彼はなぜその狂気を撮ったのか。死を撮ったのか。そして、なぜ発表するのか。問いはそれから10年以上かけて古屋と共に世界を移動しながら投げかけられ、自問自答される。時には事が起きた現場、ベルリンにまで二人は共に足を運ぶ。
その間も、古屋誠一による過去の写真を編んだ書物は出続ける。次第に、写真集にクリスティーネの「手記」からの言葉が引かれるようになり、事実は多層化する。
同時に本書自体にも写真集に載った古屋の文章、聞き書きによる話し言葉の再現、国を越えてやりとりされるメール、写真が無言であらわす事実、クリスティーネのノートからの言葉が錯綜する。
様々なレベルの言語が重なって迫ってくる様子はもはや小説としか言いようがないのだが、そこに一人の女性の狂気と死が確かにあったことは、口絵に印刷された美しくも恐ろしいクリスティーネの写真のまなざしが証している。だから読者は引き裂かれる。何が真
実であり、何が思い込みなのか。
しかも本書は古屋によって読まれる。読まれてしまえば古屋の思いに影響が出ないとは言えない。すべてが軒の中に入る。
客観取材のあり得なさを含め、やはりこの本はあらゆる表現論の息苦しい核心を突いてやまない。
(評) いとうせいこう/作家・クリエーター
小林紀晴(著)
集英社・1785円/こばやし・きせい1968年長野県生まれ。95年に『ASIANJAPANESE』でデビュー。97年『DAYS ASIA』で日本写真協会新人賞。主な写真集、著書に『ASIA R
OAD』『写真学生』『ハッピーバースデイ3.11』など。
小林紀情は写真家であり、同時に抑制の利いた文章を書く作家である。その小林が取り憑かれるように写真家・古屋誠一を追った長い年月の記録、思索が本書だ。
最初は1991年。著者は古屋の写真展に出かけ、古屋が精神を病んでいく妻クリスティーネを撮り、負のエネルギーが充満″した風景を撮り、ついには投身自殺直後の妻を撮った写真と出会う。
衝撃を受けた著者はその後、ニューヨークで同時多発テロに出会い、無性に現場を撮りたいと思う。しかし日本で体験した大震災では今度は撮ることを躊躇する。
なぜ撮るのか。撮っていいのか。なぜ発表するのか。発表していいのか。表現の根幹に潜む倫理、自意識、権利などの大問題を小林紀情は背負い込む。なぜなら、古屋誠一が妻を撮った写真が、そして古屋が写真集に書き込む言葉が小林に思考を迫るから。
ソンタグの『他者の苦痛へのまなざし』に引用されたプラトンの言葉を、著者は冒頭に孫引きする。「お前たち呪われた眼よ。この美しい光景を思いきり楽しめ」
悲痛さ、残酷、災いを(呪われた眼)は見ようとする。その卑しくも根源的な欲望に私たちは常に突き動かされる。写真家ならばなおのこと、その(眼)で記録をしてしまうかもしれない。
2000年。オーストリアの古屋を著者は訪ねる。何が古屋とクリスティーネの間にあり、彼はなぜその狂気を撮ったのか。死を撮ったのか。そして、なぜ発表するのか。問いはそれから10年以上かけて古屋と共に世界を移動しながら投げかけられ、自問自答される。時には事が起きた現場、ベルリンにまで二人は共に足を運ぶ。
その間も、古屋誠一による過去の写真を編んだ書物は出続ける。次第に、写真集にクリスティーネの「手記」からの言葉が引かれるようになり、事実は多層化する。
同時に本書自体にも写真集に載った古屋の文章、聞き書きによる話し言葉の再現、国を越えてやりとりされるメール、写真が無言であらわす事実、クリスティーネのノートからの言葉が錯綜する。
様々なレベルの言語が重なって迫ってくる様子はもはや小説としか言いようがないのだが、そこに一人の女性の狂気と死が確かにあったことは、口絵に印刷された美しくも恐ろしいクリスティーネの写真のまなざしが証している。だから読者は引き裂かれる。何が真
実であり、何が思い込みなのか。
しかも本書は古屋によって読まれる。読まれてしまえば古屋の思いに影響が出ないとは言えない。すべてが軒の中に入る。
客観取材のあり得なさを含め、やはりこの本はあらゆる表現論の息苦しい核心を突いてやまない。
(評) いとうせいこう/作家・クリエーター
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